不満とニード

前回、「話を聞く」ということについて書きました。その時に、怒りの問題はまた別に取り上げます、ということを書いていたと思います。実際のところ、この話をするためには、何を聞くのか、聞くことをどのように構築するのか、といった前提が必要であったために、前回の記事を書いたのでした。

心理的な支援やカウンセリング、心理療法の中で、人の問題について話を聞いていると、それなりの割合で私たちは不満にたどり着きます。

たとえば経理の仕事ができないという「問題」について相談があった時に、どうして自分ばかりこんなに大変な仕事を押し付けられるのかとか、自分には合ってないのにやらないといけないとか、もう仕事を辞めたいとか、そういうことですね。

「話を聞くこと」「共感的に聞くこと」において、不満に耳を傾けるのは案外難しいことです。それは共感することが難しいからという理由ではなく(そういうこともあるでしょうけど)、話を聞いたり、共感したり、その人が言っていることを受け止めたりすることが特に解決につながらないからです。「どうして自分ばかり、と思うのですね」とか、「あってないのにやらないといけないのが納得がいかないのですね」とか、「仕事を辞めたいくらいなんですね」とか言ったところで、あまり話も展開しない、状況も変化しないことがほとんどだからです。「腹が立っているんですね」とか「不満に感じているのですね」と言ったところで、分かってもらえた感じはするかもしれないけれども、それが変化につながるわけでもないことがしばしばです。

なぜでしょう、ということをしばらく考えていた時期がありました。

多分、不満というのは反応だからです。たとえば、転んでケガをして「痛っ」と言った時の苦痛に共感しても事態は解決しないのと一緒です。この時の痛さは問題が起きたことへの反応であって、そこに問題があるということのシグナルです。むしろ取り組むべき焦点は、ケガをしたことそのものや、転んでケガをしたことの心の痛みの方です(転んだ恥ずかしさとか、何でこんな目にあうのかという惨めさとか)。ここでも怒りは反応であり、転んでケガをした運命への反撃であったりします(当然相手がいないので振り上げたこぶしは空回りするわけですが)。

ここでの反応をproductとしてみます。できあがったものにいくら介入しても、いくらそこに耳を傾けても、それは変わらないわけです。むしろ介入するのであればprocessです。転んでケガをした例で言えば、ケガが痛みを生み出しています。あるいは転んだという事実の情緒的体験が怒りを生み出しています(転ぶような環境の問題に取り組む方向性もありますが、いったん置いておきます)。

不満に耳を傾けるということは、不満や怒りに共感するのではなく、それを生み出している問題、あるいはその情緒的な体験の方に焦点を当てるということではないかと思っています(怒りも情緒ですが、processというよりもproductとして考えた方が良いということです)。どうして自分ばかりこんなに大変な仕事を押し付けられるのか、という不満があれば、まずはどういった状況であるのかを描写してもらう必要があるでしょう。経理の仕事が苦手であるのに、小さな会社であるために経理をしなければいけなくなったとすると、不満に耳を傾けるよりは、どうやって仕事を変えてもらうかを一緒に考えることが解決です。どうやって仕事を変えてもらうかを考えることすらできない、そのための行動が取れない、ということであれば、よりパーソナリティの機能に焦点を当てることが必要であるかもしれません。あるいは不満に共感するよりは惨めさや悲しみに目を向ける方が変化につながるやすいでしょう。同じく、その惨めさからどのように抜け出すかということを検討することになります。場合によってはひとしきり悲しんだ後で、諦めがついて納得をするかもしれません(あまりお勧めできる解決ではないけれども、少しのあいだそうやって生き残り、次のアクションを取れる次の時期を待つことも必要であることはあります)。

話をややこしくするようですが、もちろん怒りがprocessに位置づけられることはあります。たとえば経理の仕事に対して不自然なほど脅えているとか、抑うつを感じているとかですね。こうした状態が怒りを押さえつけているために生じていることはあって、そのような時はむしろ、「そこに怒りがある」ということを自覚できることが変化のとば口になったりはします。そのような怒りは、ここで言えばproductを生み出すprocessに位置づけられます。

けれども、次に必要なアクションは、結局不満をもたらす現実への交渉や、不満を生み出す情緒的体験から抜け出すことであったりします。

これがニードという言葉で私が指し示そうとしているものです。不満は、その構造に応答の必要なニードを含んでいます。けれども不満を共感的に聞くことはニードに焦点を当てることではありません。ニードを取り上げることとも違います。不満はニードの阻害された状態で生み出されるシグナルであって、聞くべきなのは妨げられているニードです。ここに変化の兆しがあると私は考えています。

もちろん、このことは怒りに耳を傾ける必要がないということではありません。怒りに耳を傾けていれば、怒りを生み出している状況やその状況に付随する心の痛みは現れてきます。怒りは怒りで広がりを持っています。けれどもそうでもない時があって、怒りが怒りに終始していて、そこから発展しないことがあります。そのような時にはこちらが話を方向づけていく必要があります。そのことをここに書いています。

逆に言えば、不満や怒りを直接攻撃的な言動で解消する、あるいはアルコールや薬物で発散させる、といった不満や怒りを直接にどうにかしないと収まりがつかない状況に陥っているとすれば、つまり、不満や怒りが体験的な広がりを持たず、productの消失のみに関心が集中し、怒りの爆発を押さえるのかどうするのか、具体的で奥行きのない体験になっているとすれば、それは相当に不健康な状態だと言えるでしょう。パーソナリティの機能のより大きな問題を考えることになるかもしれません。あるいは、象徴性を欠いた外傷的な心の状態を想定しなければいけないかもしれません。心は柔軟性を欠き、本来の解決には至らない解決を構築しています。つまり、自らのニード(と私が呼ぶ要素)の解決とは切り離された、衝迫の解決です。その解決は心の安定をもたらさないし、かりそめの安定、あるいは剣呑な安定しかもたらさないだろうと思います。そのような意味で不健康な状態です。

臨床的にはそれでも、現実がいかに耐え難いものであるか、その痛みを悼むことに取り組みつつ、怒りの程度を和らげ、考える余地を作り出す努力をするわけですが。

不満はニードを知らせる重要なシグナルです。けれども、ニードそのものではありません。その区別をしておくと、話は聞きやすいのではないかと、SVをしていると思います。

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