「話を聞く」ということ

最近SVのことについて聞かれたり、SVの中で聞かれたりすることがありますので、普段私が気にかけていることを書いてみたいと思います。SVを受けている人の中にも、こんな話聞いたことがないよと思われる方がいると思いますが、機会があればこういう話をしているし、そうでないとしてもこんなことを考えながらSVをしている、ということがいくつかあります。そのうちの1つ、心理士として「話を聞くこと」についてです。

支援なり心理療法やカウンセリングなりの、およそ心理的な関わりの生じる介入における基本的な態度として言及されるものに、「話を聞く」とか「傾聴する」とかということがあります。でも、一体何を聞くのか、何に耳を傾けるのか、ということになると、これは案外難しい課題です。同じ話を聞いていても、初心者だった頃の私と今の私とでは、ずいぶん違うものを聞き、ずいぶん違うことを想像し、ずいぶん違うことを感じています。

ただ単に一生懸命に聞いてれば、それで問題が解決するのであれば簡単なことですが、そうもいきません。「聞く」ということの専門性が私たちにはあって、それは実際のところ何をしているのか、ということを少しは明らかにしたいところです。

話を聞くことの専門性とはどのようなものなのでしょうか? 何を聞けば良いのでしょうか?

1.心理学的要素に落とし込む

人が相談に訪れる時、何らかの問題を抱えています。問題の解決が求められていて、そのことに対する助言や手助けが必要だと考えられます。けれども、これもまた案外難しいもので、というのは、たとえば仕事ができなくて悩んでいる時に、支援者はしばしばその仕事をどうすればうまくやれるかを知らないからです。私は経理の仕事をしたことはないし、経理の仕事がうまくやれない人がどうすればうまくやれるのかを知りません。プラズマの計測実験で困難を抱える学生に、どうすれば適切な計測ができるようになるかだって知りません。ある人のお母さんとの関係が難しいとして、私はそのお母さんも家庭環境もよく知らないわけです。仮に私が知っているとして、私に適した理解の仕方、取り組み方が、その人に適しているとも限りません。

私たちは自分の知らないことについて、自分の経験していないことについて介入をしています。なぜそのようなことが可能なのでしょうか?

1つには、私たちが自分に理解できるところに問題を落とし込んでいるからだということが言えます。つまり、心理的な問題として問題を扱うということです。経理の仕事は分からなくとも、経理の仕事について助言をしたり手助けをしてくれるはずの人と出会うこと、助けを求めること、助けを利用すること、については、いくらかのことを知っています。いくらかのことを想像できて、いくらかのことを取り扱うことができます。プラズマの計測実験に取り組む上で妨げになるような心の状態や環境への反応について、ある程度のことを想像し、困った状況での心の働き方を評価することは可能で、うまく機能するための見通しを持つことは可能です。目の前の課題に取り組むための自分の心の調整について、身体の整え方について、感情の取り扱い方について、行動の始め方と維持の仕方についても、ある程度のことを知っていて、考えることができます。そうしたことを一緒に検討する関わり方についても訓練を受けてきました。

そうして知らないことについて、経験していないことについて、なぜだか支援ができる人になっていきます(それだって限界はありますが)。

そうすると、どのように心理的な要素に問題を落とし込むのか、ということが、話を聞くということの最初の目標になります。特に、その変換が、問題の解決に向かうような変換でなければ意味がありません。たとえば経理の困難を、無力感や自信のなさに落とし込むだけでは解決に向かいようがないし、プラズマの計測実験について、苛立ちや怒りに落とし込んで悪循環を指摘するだけでは解決に向かいようがありません。家族関係の問題をそれとして指摘するにしても、だからどうしようもないんです、という袋小路に立ち尽くすわけにはいきません。そこから何かを始めることができる、何かを考えることができる、何か広がりのある、何か潜在的な可能性のある、そういった要素に問題を落とし込む必要があります。最近ではケースフォーミュレーションと呼ばれるような複雑な様式への変換の第一歩ということですね。

2.変化につながること

逆に言えば、それができない時には、問題を心理学的に扱うことは難しいとも言えます。むしろ経理の仕事を理解するための講習や、経理に関わる法律や規則についての研修や、パソコンのスキルや経理のノウハウを修得するための研修が必要であるかもしれません。プラズマとは何かを分かりやすく解説した動画や、機器の扱い方についてのマニュアルの整備や、実験手続をまとめる努力が求められたりするかもしれません。家族の中の問題についての司法的な知識や対応が何より役立つこともあります。

そのところどころに、心理学的な援助が役に立つこともあるでしょう。たとえば、知識の整理の仕方や話の聞き方、自己主張の仕方についてのノウハウや、学習、教育、認知心理学の適用です。それはそれで心理的な支援にはなりますが、中心は知識やスキルの修得にあり、現実的な問題への対応にあり、そのために心理学が応用されています。

それに対して、いわゆる心理支援やカウンセリング、そして心理療法では、心の状態が変化することが目標となります。それは落ち着かない気持ちが落ち着くような状態の変化であったり、自分の問題への取り組み方を整理して知るというような自分や問題の見方の変化であったり、ものの見方や感じ方、考え方や行動の仕方、関係の取り方といった心理学的な諸要素が生まれてくるところの心の構造や組織化といったパーソナリティの作用の変化であったりします(私はBionの言葉を使って、パーソナリティの関数が変わるという考え方が好きです)。こうした変化が目指されることが心理的介入の中心にあると考えることができるのではないでしょうか。

「話を聞く」というのは、このことに向けて方向づけられています。それでは、どうすればこうした変化がもたらされるのでしょうか?

たどり着く場所はニードにあると私は思っています。

3.潜在的なニードへの方向づけ

たとえば経理の仕事ができないという相談が持ち込まれたことを考えてみます。まずは、なぜその仕事ができないのかということを具体的にしていく必要があります。具体性のない話に進展はありません。話をしてみた結果、経理の仕事の知識的、技術的な問題であると分かった場合は(心理的な要素ではないため)、それはそれで研修の機会などを経て獲得するものとして、いったん脇において話を進めます。問題を具体化していくと、たとえば、失敗をするかもしれない不安が強いために仕事に手を付けられない、ということがあるかもしれません。そうしたことであれば心理的な介入が役に立ちます。お金を扱うことの責任感が重たすぎるのかもしれません。頼まれたことはすべて100%できなければいけないと思って自分でハードルを上げていることもあるかもしれません。自分ばかり大変なことをさせられているという憤りがあったり、嫌がらせをされていると感じていたり、笑われたりバカにされたりしていると思うのかもしれません。自分の能力に見合わない小さな仕事しかさせられていないということが理由かもしれないし、自分の仕事が評価されないことに不満を持っているのかもしれません。一人で仕事をしないといけないと思っていたり、分からないことがあっても心から助けてはもらえないと思っていたりすることもあると思います(職場の中での恋愛関係が、とか、家庭での不遇な環境が、とか、経理の仕事以外の状況に問題の本質があるということもいったんここでは脇に置いておきます)。心理的な介入が可能になるということは、こうした心理学的な要素が現実の問題を現実的にこなしていくための障壁となっていて、この障壁を取り除くことで現実の問題に現実的に対処していくことが可能になるだろうということを意味しています。

失敗をするかもしれない不安について取り上げてみます。だんだんと具体的になっていきます。なぜ失敗が怖いのでしょうか。過去に大きな失敗をしたことがあるという未解決のトラウマ(的な苦痛な記憶)のせいかもしれません。失敗をすることで叱責されたり責任を取らされるという恐怖があるのかもしれません。失敗が取り返しがつかないということをどこかで学んできたのでしょうか。こうしたことが障壁であるのだとすると、失敗をするかもしれない不安を解消して、仕事に取り組めるようになることが必要に思えます。それはどういうものでしょうか?

3つくらいのことが考えられます。1つは、実際のところめったに失敗をするものではないということを経験することです。失敗をするかもしれないという不安は、失敗をするという現実とイコールではありません。そのことを知ることは助けになるかもしれません。もう1つは、失敗しても怒られないということを経験することです。失敗をするということと批判されるに値する(人間である)ということもイコールではありません。それが分かると不安の程度は下がるでしょう。最後の1つは、失敗からも回復をすることができるということを経験することです。失敗が取り返しのつかないことではないということ、あるいは取り返しのつかない失敗にも償いの仕方は何かしらあるということを人は経験することができます。けがをしたとしても大きな傷になることはまれであるし、かりに大きな傷がついたとしても、傷が癒え、そこから学ぶことは可能です。

どの場合にも「不安が低下する」ということが目指されています。ここに潜在的なニードがあります。人が心理的な問題を抱える時に、それはしばしば不安、心配、恐れ、恐怖、脅えといった感情で表現される要素を含んでいます(怒りの問題は別に取り上げます)。それをもたらすメカニズムや構造、付置、関係性といったものはさまざまであるとしても、現実の問題に現実的に取り組むことができるための障壁の除去という目標に関しては、こうした不安や恐れを低下させるということが潜在的な目標となります。つまり、「自分は大丈夫なんだ」と感じられるという状態です。私がニードと呼ぶのはこの水準です。

人はニードの水準まで降りたって、そこから始めることで心の状態が変化するのだと思います。問題を解決する、とは、今現在問題となっている状況に潜むニードに手応えが得られることを意味しているのだと思っています。

3つ注釈をつけます。

1つは「自分は大丈夫だ」という感覚についてです。これは “I am OK” のような抽象的な自己肯定感とは異なります。むしろ、具体的な現実に対応するに当たって、問題は生じないか、問題があったとしても大きなものにならないか、大きなものになったとしても回復できるということを知るという意味での、自分が脅かされたり壊されることがないという、守られ、保証され、生きていられるという安全と安心の感覚です。抽象的な自己肯定感はこうした経験の蓄積の上に成り立つもので、結果的に構築される感覚です。

もう1つは、「潜在的な」と書くことの意味です。こう書くのは、これを目標として共有することがしばしば困難だからです。不安というものは「勝手に」なるものだからであって、自分の「意思で」なるものではありません。問題として、困難として、共有はできるとしても、”I am OK” 同様、不安の低下や「自分は大丈夫なんだ」と感じられることも目標としては共有できません。「怒られるんじゃないかという不安が低下することが大事ですね」と心理士が言ったところで、「そんなこと言われても……」と思われるのが落ちです。私たちは、自分の心の中で不安の低下を目標に定めるだけであり、共有された目標としては、むしろ「落ち着いて仕事に取り組めるようになること」を掲げることになるでしょう(安全や安心の感覚は、しばしば、「落ち着く」とか「整理される」とか「整う」という言葉で表現可能です)。

3つめは、ニードの性質です。ニードはしばしば欲求と訳されます。確かにそれは欲求でしょう。けれども日本語で欲求という言葉が持つ陰影は、「欲」と関わります。確かに欲しいものではありますが、どん欲さやがめつさとは関係がありません。ここでニードとカタカナのままで理解しようとしているのは、その人がその状況で、あるいはその人生において、ある重要な局面で、あるいはその時々に、「必要としているもの」です。生きるために、生き延びるために、身を守るために、心を守るために、育つために、成熟のために、成長のために、豊かさのために、変わっていくために、必要なものです。必要なものは欲しくなりますが、それは「欲」という響きの外延と一致するものではありません。したがって、「完璧に仕事をこなせるようになりたい」ということは、ここで言う「ニード」の範疇ではありません。むしろ完璧に仕事をこなせなければならないような恐れが背後にあります。あるいは「失敗したくない」ということも、「ニード」ではありません。生きていれば失敗はします。むしろ、失敗への恐れが和らぐことが「ニード」として同定されるものです。何が違うかというと、過剰さです。完璧であること、失敗をしないこと、高い評価をされること、は要求水準としては過剰なものです。それを目指すこと自体はもちろん個人の自由です。しかし、心理的な介入で支えようとしているのは、むしろ、そうでもしなければ落下する、倒れてしまう、崩れてしまう脆弱さの部分であり、達成しようとすることは過度な素晴らしさではなく、まずは地に足がついていることです。これさえあれば上昇することも可能です。しばしば過剰な上昇は下降への恐怖に対抗するために生じています。ニードについて同定する際に、この違いに気付いておくことは必要です。よく must と want という言い方がされますが、私の感覚では want もまだ過剰です。

ともあれ、「話を聞く」ということはここに向けて構築されていくのだと思います。現実的な問題に取り組むにあたって「何が障壁となって問題に取り組めないのか」を問い、「この人を落ち着かせないものは何か」を明らかにし、どうすれば「落ち着きに至るのか」を想像します。不安や恐れのあるところに目を向けて、それを生み出している構造や心の機能、他者との関係、環境の状態といったことを明確にしていきます。そこに潜在的なニードがあり、ここが出発点です。これが「話を聞く」ということの焦点であると私は思っています。

4.心理士の役割

この「話を聞くこと」における心理士の役割について、2つの局面を取り上げます。

1つは、問題を明らかにしていくための導き手となることです。相談者が自発的に問題を語っていれば、隠されたニードが明らかになる、というようなことはまずありません。それが可能なのであれば、相談に来る必要もないからです。もしも自発的に語ることでニードが明らかになるとすれば、それは対話が、自発的な語りがニードにたどり着くようになっていたからだと言えます(ややトートロジー的でもありますが)。むしろ「話を聞く」ということの専門性は、ニードの水準へと降りていけるように対話を構築することにあります。それは質問をすることであったり、「もう少しそのことを話してもらえますか」と話を広げることで諸要素の構造や付置、関係性を明らかにすることであったり、不安や恐れのある方面に話を向けることであったり、その状況や関係、感情に名前を付けることで言葉で扱いやすいものにしておくことであったり、関係がありそうな似た場面で同じようなことがあったかを想像して尋ねることであったり、いろいろです。このスキルや技法は、立場や考え方、心理士のパーソナリティによっても影響を受けるでしょう。大きく向かう先がニードであれば、色々なたどり着き方は可能なのだと思います。

これについて書き始めると、それはそれでまたたくさんのことを書くことになると思います。けれども、「個々の」聞き方そのものよりも、それがどのように方向づけられ、組織化されているのか、という「何を聞こうとするか」という聞き方の方が大事なのだと思います。ドラえもんの第1話にあったように、目的地に向かうためには色々な手段がありますが、目的地が見えてくれば行き方は決まってきます。

もう1つは、その後の話です。私たちは話を聞きますが、それは1回では終わりません。その後のことを語るには見立てやケースフォーミュレーションについて、目標の共有について、押さえておかなければいけませんが、ともかく、潜在的なニードにたどり着いたとすれば、今度はそのニードが充たされることに向けて対話が構築されていきます。

ここで話は最初に戻ります。私たちは「どうすれば良いか」をそれほど知りません。ある職場の環境の中で経理の仕事をする時に、どうすれば落ち着いた状態にたどり着けるかの答えを持っていません。ただし、目的地は分かります。先ほどの思いつきで言えば、心配するほどに失敗をしないということを知ること、失敗しても責められることがないということを知ること、責められることがあるとしてもそこから回復することができることを知ること、そのいずれか、もしくはすべてが充たされることです。

これらはどれも時間のかかることです。というのも、それは「経験」だからです。失敗をしないとか、失敗をしても責められないとか、責められても回復できるとかいうことは、知識として、情報として知ることで役に立つものではありません。むしろ経理の仕事に取り組み、失敗するかもしれないと不安になりながら作業をして、実際に失敗をしてショックを受けたりつらくなったりみじめになったり自分で自分に怒りを覚えたり混乱したりしながら、失敗を注意されたりされなかったり、フォローされたりされなかったりして、どうにもならないと思いながらそれでも次の日も仕事をして、そのうちにほっとする瞬間が訪れて、といった時間の流れの中で、つまり経過の中で経験として知られることで、新しい心の状態になっていくものです。私たちの仕事はこの時間を過ごすことにあり、この「経験すること」を促進することにあります。話がニードにたどり着くように導くのと同様、経験されるべきことが経験されるように導くことが求められます。

つまり、話を聞くことのもう1つの役割は、安全と安心を経験するに至るまでの間、一緒にいる人になることです。

話を聞くだけであれば相談者との関係の中で終わる話ですが、経験されるべきことが経験されるように導くことは現実の出来事によって左右されるため、より大変な作業です。どんな作業が待っているか、失敗するかどうか、失敗した時の周囲の反応はどんなものか、どこに救いがあるのか、どういう形で落ち着きが戻ってくるのかを私たちはコントロールできません。むしろ、現実の世界の中で起きていることと歩調を合わせながら、一連の経過をたどることができるように本人の活動を支えています。「そういう時に逃げ出したくなるのですね」とか「失敗が怖いけどとにかくやっているのですね」とか「怖くて脅えている子どもの心があるのですね」とか「助けてくれる人もいるのですね」とか「それは安心しますね」とか言いながら、経験するべきことを通過するということを支えています。当然ながらここに技法論的な課題はついて回ります。しかしながら、個々の技法の選択においては、どこに向かって経験が進んでいくかということにもとづいて、どのように介入を方向づけ、組織化するか、ということが問われているのだと思います。

5.SVでの仕事

話を聞くことの専門性を私はそのように考えています。そのようなことを考えながら、SVの場で語られることについて聞いています。それは本来、SVの中でも同じです。もっともSVにおいては、同業者ということもあって何をすべきかについて、もっと直接に助言できることはあります。SVにおけるスーパーバイジーの中心的なニードは、ケースについて理解できるようになることであるはずで(と私は考えていますが)、それにどう応えるかが中心的な作業でもあるでしょう。それでも、私はスーパーバイジーと同じパーソナリティではないし、私にとって自然なことがスーパーバイジーにとってもそうだとは限りません。スーパーバイジーの持ち味を私も同じように持っているわけではありません。その意味では何をするかを逐一指示するよりも、何が理解され、どのような目標に向かって進むかを整理し、方向づけ、組織化することの助言が中心になるのであって、個々の技法の選択はある程度スーパーバイジーに任されるだろうと思います。私にできることはそのためにケースの理解を明確にすることであり、それができると付随的に支えられたり、分かってもらえたり、安心したりする感覚を経験するのだろうと思います(そうなっていると良いですけどね)。そうなるまでには一定の時間が必要であるし、それに付き合うこともSVでの仕事だと思っています。

「話を聞く」ということはおよそ支援に関わる人に必要な基本的な態度になりますが、心理士の持つ1つの重要な専門性は、このように、語られている内容を超えて、問題を生み出し、かつ心理学的な変化につながるような結節点にあるニードに向かって、聞くことを構築するところにあるのではないかと考えています。このニードの在り処を探るのに、私はアタッチメントシステムを活性化させる危機的状況というものが良い手がかりになると思っています。

「話を聞く」ということについて考えているのは、だいたいにおいて、そのようなことですが、ここでは創造性の側面については触れていません。そのうちにニードと創造性についてもまとめられると良いのですが。

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