つむじ曲がりの猫

少し昔話を。

初めてパソコンを買ったのは大学3年の冬でした。それから卒業するまでの間、あまり大学に行くこともない昼夜逆転の生活の中で、長い時間パソコンを相手に過ごしました。それは今でもあまり変わりがないかもしれません。でも、その頃はまだ自分を表現するための何かを探していて、でも実際のところ自分が何を表現したいのかもあまりよく分かっていませんでした。

1つだけ分かっていたのは、キーボードでブラインドタッチができるようになったことで、文章を書けるようになったことです。それまではうまく文章が書けませんでした。理由ははっきりしていて、鉛筆を手で動かす作業が考える速さに追いつくはずもなく、やがて手の疲れが思考を妨げてしまうことが繰り返されていたのです。パソコン以前のワープロの荒い画面では何かが書けるとも思えませんでした。パソコンがなかったら、私は物が書けないままであったかもしれません(書かれたものが大したものではないとしても)。

その頃に書いた小説がありました。今も変わらずにあまりぱっとしない部分と、今ではもうこんな表現はできないだろうなという20代のきらめきと、ずいぶん遠くへ来たことを思わせる懐かしさがあります。大学時代の供養を兼ねて、ここに記したいと思います。

 


 

『つむじ曲がりの猫』

 

 電気を消して布団にもぐりこんだ後で、僕たちは長い間眠ることができなかった。青白い月が漆黒の木々の上を通り過ぎ、川沿いの家の門の明かりが消え、そのかわりにどこかで犬が遠吠えをしていた。夜の埋めようとしている領域を必死で守ろうとしているかもしれなかったし、もしかしたら遠くはなれた友人と酒でも飲もうとしていたのかもしれない。何かの意図が込められていたのかもしれないし、単なる偶然だったのかもしれなかった。

 何にしても僕たちの他にも眠れない生き物がいるということは、僕らをひどく安心させた。そうでなければ僕たちの体は、沈黙のすき間をぬってやってくる孤独に引き裂かれてどこか遠くへ放り出されてしまいそうだったし、あるいは深い無重力の井戸の底へと引きずり込まれてしまいそうだった。「何か話して。」と彼女が言った。

「どんな話がいい?」と僕は尋ねた。

 彼女はそれには答えず僕の背中に手を回し、胸に顔を埋めたままで、眠りにはいる前の柔らかな呼吸をしていた。布団の上を冷たい空気が流れていくのが分かって、僕も彼女の体を少しだけ力を入れて抱いた。彼女の呼吸に合わせて肩が小さく揺れ、穏やかな時間が降り積もる雪のようにあたりを包み込んでいた。

「昔、つむじ曲がりの猫を飼っていたんだ。」

 とても素敵な出だしだった。

-○-

「昔つむじ曲がりの猫を飼っていたんだ。ごく平凡な猫だった。きっと迷子になったら誰にも探せない。大きさも顔格好も、歩く姿だって、ごく平均的なふつうの猫だった。目は2つだし鼻は1つ、おまけに足が4本あるところまでふつうの猫と同じだった。毛並みは柔らかすぎず硬すぎず、もちろん風呂で洗ってやればとても毛並みのいい猫になったにしても、2、3日たてばまた平凡な猫に戻っていた。毛の色は茶色で、独特な斑点もなければ、模様もない。写真を見せればそれと同じ猫なんてどこにでもいるって誰もが答えたんじゃないかと思う。もちろんそんなことはありえないんだけどね。でも結局平凡ってのはそういうことなんだ。」

 そういって僕は溜息をついた。まるで、僕のことを言ってるみたいだった。目は2つで鼻は1つ。足が4本あることを想像するとめまいがした。

「でも、つむじ曲がりだったのね?」と彼女は言った。

「うん。」

「どうしてつむじ曲がりだって分かったの?」

 彼女は僕の胸から顔を離し、体を合わせたままで僕を見上げて尋ねた。とてもいい質問だったと思う。

 僕はしばらく黙り込んで、そのころのことを思いだそうとしたけれども、どうしてもうまく思い出すことができなかった。正確に言えば、どんなことをしてもうまく思いだせる気にならなかった。記憶は緩やかな斜面に積み重ねられ、散らかされたおもちゃ箱のように、乱雑にあたりに放りだされていた。探し物をするために、どこから手を付けたらいいのかさっぱり分からなかったし、そうでなくともそれらはどこかしらに故障を抱えていた。一度坂道を転がり始めたら、追いかけて止めることだってできやしない。なにより不幸だったのは、僕にとって一番大事なことから忘れ去られてしまうという事だった。それが他の誰かにとって意味がないことだとしても、僕にとってはかけがえのない記憶というものがある。そうしたものから先に失われ、後にはかつてそこに何かがあったという痕跡だけが残される。やがて雑草が生い茂り、木が森を作り、失われた記憶は、古代の生活のようにその痕跡さえ無くしてしまう。

 ガラクタをぴかぴかに磨いて何かを作り上げた気になっている退屈な男がいるとしたら、それが僕だった。ささいなことばかりを覚えているというのは、見方を変えてみれば幸せだったのかもしれない。

「でも、とにかくつむじ曲がりの猫だったのね?」と彼女は言った。

「うん。」と答えてから、僕は少し悲しくなった。

 それから、彼女は再び僕の胸に顔を押しつけ、柔らかな指で背中に爪を立てた。まるで、僕たちの存在している理由を誰かに向かって問いただしているみたいだった。もしかしたら、それは僕に向かってだったのかも知れない。

 窓の外を車が通り過ぎるたびに黄色や白のライトが窓枠の形に、部屋の天井に浮かび上がる。雨が上がった後の湿気を含んだ空気に遠くのものは霞み、街灯に照らされた桜は音もなくピンクの淡い花びらを散らせていた。闇に映し出された桜の木の幹の黒さだけが印象的だった。

「続けて。」と彼女は言った。

-○-

「続けて。」

「猫は、とにかくよく鳴くんだ。何かあるとすぐに甘えた声で鳴き始める。いや、正確に言うと何もないのに鳴き始めるって言ったほうがよかったのかもしれない。初めのうちは、おなかが空いてるんだろうって思って缶詰の蓋を開けたり、キャットフードの袋を開いたりしてえさをやったり、上手に躾けたトイレに連れていけばいいのかもしれないって思ったり、外に出たがっているのかもしれないと思ったから、家中の窓や扉を開放したりしたんだけど、結局何の変化もなかった。事態は何も変わらないんだ。猫は僕のすることとは関係なくよく鳴いていたし、気付かないうちに鳴きやんでいた。僕にできることはといえば、あれこれ考えて無駄な努力を繰り返すことだった。あるいはゼロだった。どうにもしようがないんだ。僕の生き方そのままだったんだと思う。平凡なことを相手に、ありきたりの手を尽くしては何も得られないまま終わってゆく。何も生み出さないし、何も……。」

 僕はそこで言葉を区切って、彼女の髪をなでた。少し前に洗ったばかりの彼女の髪は、いつものシャンプーの匂いがして、短くか細い髪のその内側はまだしっとりと濡れていた。

 僕が喋る間彼女は何も言わなかったし、少しも動かなかった。わずかに呼吸していることを確かめられるくらいだった。

「髪、乾かさないの?」と僕は尋ねた。

 彼女は何も答えず、胸に顔をうずめたまま静かに笑ったような気がした。春めいた穏やかな風が流れて、しんとした空気が次の言葉を待っているようだった。

「とにかく、僕にはどうしようもなかったから、猫が鳴いても放っておくようにしたんだ。猫もいくら鳴いても僕に何かを要求してくるようなことはなかったから。少なくとも僕にはそう思えたし、お互いに勝手気ままにやっているというのは、それほど悪い気分でもなかった。どちらにしても、僕はその家に住んでいたわけだし、猫だって帰る場所はそこしかなかったわけだからね。

 そのころ僕は大学の授業に真面目に参加していて、そのせいで課題をこなすために図書館にいる時間が長くなっていたり、それから友達との付き合いも幾分かあったりもした。今からは想像もできないけど、まだ世の中に絶望するなんてこともできたから、そのせいで取り返しのつかなくなってゆく感情の埃をたたいて、ぼんやりとした窓の外に放してやるっていうような事もしていたんだ。

 ひどく落ち込んだ気分の時には、近くのビリヤード場に出掛けていって、一日中重たく転がる球を相手に過ごしたりもした。近くっていっても往復一時間はかかる場所で、そこでは、多分大抵のビリヤード場がそうなんだろうけど、時々他のテーブルで球を突いてる人たちの話し声とか、球がぶつかる音とか、球がポケットに落ちる音とかが響く以外には、何の音もしない外の世界からは隔絶された空間だった。壁に掛けられた時計の針の音がやけに大きく聞こえた。機械的に時間が推し進められてゆくその音は、まるで時限爆弾みたいで、僕の神経はそのことに集中して、いつの間にか研ぎ澄まされるように張り詰めて、反対にいつでもすり減っていた。それは決して悪い気分じゃなくって、心地よい疲労感を与えてくれたような気がする。夜にはよく眠れたよ。

 唯一の欠点といえば、ビリヤード場で一日を過ごすと、服に煙草の臭いが染み付いてしまうことぐらいだったんじゃないかな。そういえば、僕の友人たちは煙草を吸うことがなかったせいで、たまに決まりの悪い思いをすることもあった。それが僕のせいではなかったにしてもね。」

 外の桜の前を誰かが自転車をこいで通り過ぎていった。何の気なしに僕はそれを見送り、それから僕が4年間を過ごした大学の芝生を思いだそうとしてみた。人々は好きな場所に腰を下ろし、思い思いのかっこうで持て余した時間のかけらを組合わせていた。向こうのほうではどこからか遊びに来た子どもたちが駆け回っていたし、合気道部の部員が何人か、とても宗教的に円運動を繰り返す練習をしていた。何のためにそんな場所がそこに存在していたのかは分からないけれど、全体としてそこはそれほど悪くはなかった。けれども、結局それ以上にうまく思い出せないという点では何の救いにもならなかった。それが僕にとって大事なことだったのかどうかさえ、今となっては分からなかった。

 少し向こうで、自転車のブレーキの音がして、霧のにじんだ空気によく響いた。月にまで届くんじゃないかとも思った。そして、そのブレーキの音が急速に消え去ると、あたりはまた闇に覆われた。

「そんなふうにして、僕は大学生活をなんとかこなしていたし、そうでなくても、誰もが考えられる限りのトラブルを抱え込んでいたから、それ以上に猫にかまう気にはなれなかったんだろうと思う。それにさっきも言ったように、僕が手を尽くしてみたところで、猫は猫で勝手に鳴いていたからね。放っておくことに決めたんだ。もしかしたら、そのせいでつむじ曲がりの猫って思ったのかもしれない。」

 そういって僕は笑おうとしたけど、上手に笑えなかった。それは全くの嘘だと分かっていたし、たとえそうでないにしても、笑わなければいけないほど可笑しいことだとは思えなかったからだった。

-○-

 僕がそうして喋る間、あいかわらず彼女は全く口を開こうとせず、身動きもせずに、じっと僕の話を聞いていた。背中に回した手の力はいつの間にか抜けていて、体全体が布団の中に沈み込んでいるみたいだった。もしかしたら、眠っているのかもしれない。

 眠っている。そう考えると僕の体も急に睡眠にむかって落ち込んでいくような気がした。一瞬、温かな水の中を漂うように意識がまどろみ、それからまた、布団の上にいた。

「僕が眠っている間に、一度だけ猫が鳴いたことがあるんだ。もともと猫は夜になると出歩くものなのかもしれないけど、すくなくとも、その猫に限っては夜11時になると自分の寝床に入って、朝の7時まで起きなかった。たっぷりの睡眠をとった後で目が覚めると、大きなあくびをしながら伸びをして、僕を起こし、それから僕の出すえさを食べ、どこかに出掛けていくこともあった。もちろん一日中家にいることもあったんだけど。なんであんなに大きなあくびをしなきゃいけなかったのかは知らない。何かの自己主張だったのかもしれない。もっとも鳴くこと以外に主張したいことがあればの話だけどね。それにしても、ともかく夜の7時には部屋にいて、僕の出すえさを食べ、それから僕のひざやストーブの近くやテレビの上で横になり、きっかり10時59分になると自分の寝床にいって11時には眠りについていた。自衛隊で訓練されたように正確だった。『にーさんまるまるじ、しゅうしん。』敵とか味方とかいうものが何かしらあったのかはよく分からないにしても。

 ともかく猫が鳴くのはいつも昼間だったから、夜中に猫が鳴いたことに僕はひどくびっくりした。そんなことははじめてだったし、そうでなくとも僕は鳴いている猫に何もできないということがよく分かっていたわけだから。」

 僕が追いかければ追いかけるほど、物事は本質から解離していったし、追いかけるのを諦めて立ち止まったところで状況が良くなるわけでもなかった。繰り返し繰り返し波が打ち寄せながら、いつの間にか潮が満ち、それから時間が経てば潮が引いていくみたいに、物事には変化というものが必ずあるのだとしても、僕の関わる事にはそうした変化は見られなかった。不思議絵の住人のように同じ高さをのぼり続け、同じ高さに落ち続けている滝の水を飲もうとしていたんだろうと思う。出口などどこにもなかった。どこかで歯車のきしむ音がして、誰かがそんな世界に紛れ込んできたとしてもみんな何かの間違いのついでに、もとの世界に帰っていった。もしかしたら、僕だけが、何かの間違いの中にいたのかもしれない。

 窮屈な迷路の分かれ道で、僕はどの方向に進むかをどうやって決めるかというところで悩んでいたし、いずれにしてもそれ以上に鳴いている猫にしてやれることは何もなかった。

 風が吹いて外の雑木林の黒い影が大きく揺れ、たくさんの木の葉のこすれる音が、まるで小人たちの冗談のように、湿った夜の空気の中を足早に伝わっていった。海を渡る豪華客船が消えた後の何もない海原のように静かに横たわる暗闇に、小人たちの遊ぶささやき声が広く薄く染み込んでいた。風は部屋の中にもそっと入り込んできて、窓際のカーテンを揺らし、プラスチックのレールをカチャカチャ言わせた。カレンダーのページがめくれ、机の上に積んであるごくありふれた種類の紙束が吹き飛ばされそうになったけれども、やがて一瞬の歪みとともに風は止み、カレンダーと紙束は元に戻り、後には彼女の体のぬくもりだけが残った。そしてすべては再び静まり返った。

「次の日、目が覚めたら猫がいなくなっていた。そしてそのまま、二度と帰ってこなかった。どこかで結婚して、子どもをつくっているのかもしれないし、もしかしたらどこかでのたれ死んでしまったのかもしれない。規則正しい生活に飽きたのかもしれないし、時間の歪みにはまったきり、今でもそこから抜け出せないでいるのかもしれない。そう考える事は僕にとってはとても淋しいことだった。

 どうしようもないことではあるにしても、少なくとも僕たちはいい友達だったし、このままずっとうまくやっていけると思ってた。ありふれたやり方なのかもしれないけど、そう考える事で、そのころの僕は生きていくことができたし、そのことは僕を慰めてくれてもいた。

 けれども、猫はいなくなってしまった。それは変えようのない事実だった。それはもう起こってしまったんだって、だから、とにかく、もう起こってしまったんだって考えるようにしようって決めたんだ。それ以外にやりようはなかった。」

 そう言って、僕は目を閉じた。輪郭のない暗がりが世界を覆って、物事との距離がうまくつかめなくなった。今だったらもっとうまいことができただろうか。そう考えてみたけれど、多分、何も変わらないのだろう。

「猫は僕の部屋からいなくなって、後には手のつけられていないキャットフード一箱と、猫用のトイレだけが残されていた。もしかしたら、世界から追いだされたのが僕だったのかもしれない。つむじ曲がりの猫は何かの間違いのついでに、もとの世界に戻っていったのかもしれなかった。

 多分、」

そう言いかけて、僕は言葉を止めた。時間が止まり、世界が無限に圧縮されていった。そこから先をいうのが僕にとってはなによりつらく悲しいことだった。

 彼女はゆっくりと顔を上げ、何も言わずに僕を見つめた。僕は何も言えずに彼女を見つめた。まばたきさえするのが怖かった。それから、彼女は背中に回した腕を引き寄せ、僕の頬を優しくなで、少し伸びた髪のあいでに指を入れて、小さな声で言った。

「多分?」

 布団のこすれる音がして、僕は胸が詰まりそうになった。

-○-

 「多分、最後に鳴いたのだけは、意味があったんだ。本気だったんだと思う。どんな意味があるのかは今でも分からないにしても、きっと大事なことだったんだ。でも僕は大事なことはいつでも後になってから気付くから。目印はいつも目の前にあるのに、何も気付かないまま見過ごしてしまって、それできっと道に迷うんだ。瓦礫の山に迷い込んで、足を取られ、探し物がなんだったかって事も忘れて、誰かがくれる合図に気付かないで、いつもいつも、僕は……」

 それ以上、言葉が続かなかった。途切れた言葉はしばらく宙を漂って、どこか知らない場所に消えてしまった。指の隙間からこぼれ落ちるほどの、何の感触も残さなかったのは、多分、本当に言おうとしていることから遠ざかってしまっているのだろう。

 彼女は黙って僕を見つめ、僕が次の言葉を探すのを、そっと待っていてくれた。僕はうつむいたまま目を細め、彼女の存在に身を埋めるように、ゆっくりと口を開いた。

「多分、僕は自分で思っているよりもずっと幼いんだ。」

 青白い月はもう黒々とした影絵のような雑木林の上を通り過ぎ、水銀灯に照らされた道の上にさしかかっていた。思いだしたように車がやってきては、窓のそばを通り、どこかへ遠ざかってゆく。たくさんの荷物を積んだトラックが通るたびに少し重たそうな音がして、その後ろ側では明かりを落したいくつもの家がじっと沈黙に耐えていた。

 時間は緩やかに流れる川のように絶え間なく過ぎ去って、僕たちをつなぎ止める小さな約束のようなものさえも奪いさろうとしていた。実際孤独は闇に紛れてあたりを覆い尽くしていたし、ため息のしのび込むすき間もないほど完璧であった。それにしても、僕たちはこうして布団の中で身を寄せ合ってそっと息を重ねていた。結局のところ、僕は彼女を愛していた。

 暗がりのような長い孤独が辺りを包み、車の音も、木々のざわめきも、僕のすべてがどこかずっと遠くの世界のことのように思えた。時計の秒針の音だけが、世界が変わらずそこに存在していることを知らせていた。どこか遠くの記憶の彼方で何かがカタリと音を立てたような気がした。

 僕はどうしてここにいるのだろう。つむじ曲がりの猫のいなくなった世界を思うと、ひどく惨めな思いにとらわれた。猫は何を言おうとしていたのだろうか。僕は猫の何を知っていたのだろう。猫は僕を捨てたのだろうか。猫を捨てたのが僕だったのだろうか。波にさらわれた足下の砂のように、悲しみは繰り返しくり返し細かな粒になって消え去っていき、後にはもろく小さな足跡だけが残されていた。

 夜は静かに過ぎていた。柔らかな彼女の呼吸が肩口に当たり、その生暖かさだけが僕が生きていることを教えてくれていた。猫のいない世界に、僕は生きていた。

 暗闇の中で何かがカタリと音を立てた。

 生きていくということが何も代わり映えのない日々でしかないとしても、すべてのことがただ繰り返されていくかもしれないのだとしても、それはもうどうでもいいことのように思えた。閉ざされた世界の中で、どちらに進むかをどうやって決めればいいのか分からないままでも、とにかく歩みは続くのだ。ガラクタに足を取られ、記憶の丘に立つ大きな木の下で途方に暮れることがあるとしても、僕たちはここにいた。擦り切れたガラスの向こう側で、誰かが祝杯をあげていた。遠吠えをする犬たちがいつか酔っ払いに変わっても、そしてそのままこの夜が明けなかったとしても、とにかく袋小路は行き止まりばかりではないのだ。引き延ばされた時間の歪みからも、いつか抜けだせるのかも知れなかった。

 窓越しに吹き込む風が、いつもは聞こえない川のせせらぎを連れてきた。無数の小石の上を通りすぎるしぶきが、すぐそばに水音を奏でていた。夜は確かに、静かに過ぎていた。

 僕は自分で思っているよりもずっと幼い。

 それは僕にとって、とても大事なテーマに思えた。

-○-

 彼女は再び僕の体に腕を絡め、胸に顔を埋め、僕の言った言葉にゆっくりと首を振った。それからずっと遠くの海鳴りを聞くように静かに息を殺した。月の光が優しい音楽のように絶え間なく降り注いで、夜の砂浜に染み込んでいくような気がした。

「心臓の、音が聞こえる。」

 彼女は眠りから浮かび上がり、僕にしがみつくようにそう呟いた。最後には静寂だけが取り残され、そのまま二度と沈黙が破られることはなかった。彼女は眠りに落ち、僕は闇と孤独のすき間に潜り込んでいった。

 昔、つむじ曲がりの猫を飼っていたんだ。

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