抗いとしての悲しみ

人生にはたくさんの喪失が訪れます。新型コロナウイルス感染症によってどれだけの人が亡くなり、どれだけの残された人たちが悲嘆に暮れたでしょうか。ロシアによるウクライナ侵攻だけではなく、ミャンマー、チベット、パレスチナ、イエメン、その他の地域でたくさんの紛争が生じ、たくさんの人が亡くなっています。自然災害でも人為災害でも誰かが亡くなっています。寿命や病気、事故で失われていく命があります。

精神分析は喪失を通して対象関係論を発展させました。アタッチメント理論は喪失の理論として誕生しました。喪失とはそれだけ心に痛手を与えるものなのです。

私たちの人生にはたくさんの喪失が訪れます。それは人生にどうしようもなく訪れる苦しみの1つです。私たちはこれをくぐり抜けて生きることを続けています。

喪失によって、悲嘆が引き起こされます。大切な人、もの、環境、結びつき、そうした何かを失うことはそれ自体が傷つきです。そこにあったはずの、自分であったはずのところに大きな欠落が生まれるからです。失われたものを、失ったということそのものを、悲しみます。抑うつも引き起こされます。欠落は生きることの意味の喪失でもあるからです。無力にもなります。喪失を前にしてできることはないからです。怒りも覚えます。去っていった人たちに、奪い去った運命に、事態を引き起こした何者かに怒りを覚えることは、苦痛の発露であると同時に、それは失われるべきではなかったという訴えでもあります。

喪の作業はこうした心の状態がゆっくりと回復していくプロセスです。失われたものは放棄され、あるいは心の中に再建され、悲しみも抑うつも無力さも怒りも、その程度を和らげながら、かつてあった自己の一部の欠落がゆっくりとふさがっていきます。痛みは記憶になり、苦しみは優しい思い出ににじんでいきます。喪の期間が1年と定められていたことはとても意味のあることです。どの文化もこうした喪失を取り扱う装置を有しています。私たちが人間である以上、文化の差異を超えて喪失は悼まれなければなりません。

もしも喪失への訴えがどこにも届かない時、悲しみは凍結します。喪失を通過する喪の作業そのものも凍結するかもしれません。抑うつは生まれることなく消え去り、あるいは圧倒的な深みで人を飲み込むかもしれません。喪失を前にして無力さは無関心へと形を変え、あるいは人を深い闇に落とすかもしれません。怒りは暴力に姿を変え、苛立ちや不快感として人を傷つけ、あるいは自分を傷つけることになるでしょう。引き伸ばされた悲嘆は喪失からの回復を妨げ、私たちは喪失にとらわれます。

もしも「それ」が本当に失われたのだとすれば、もう二度と失われることはありません。けれどももしもいつまでも失われ続けているのだとすると、「それ」は損なわれているのです。

損なわれたものは修復され、その後に失われる必要があります。

私たちは喪失を前にして、無力に涙をこぼします。弱く小さな子どもの心がどこかで泣いているのを感じます。喪失とはそこにあったつながりを失うことであり、つながりが途絶えることは私たちをとても脆弱にします。そうした悲しみを通して、喪の作業は進みます。だからここに他者が求められます。なぜ人は通夜に集まるのでしょう。なぜ葬式という形で喪失を表に出すのでしょう。私たちは誰かと悲しみを、記憶を、悔しさを、愛情を、過去を、そしてこれから訪れる未来を、共有することが必要です。悲しみが悲しまれるためには、誰かの手の温度が必要です。

それでも泣くことは、ただ無力で小さな子どもでいることというだけではありません。私たちは悲しみの中に怒りをたたえています。怒りはしばしば悲しみを覆い隠す防衛としての機能を持っています。怒っていれば失われたものが本当に失われたことに向き合わなくてすむからです。怒りは訴えです。訴えは反応を要求します。それは喪失をなかったことにして、すでに生じた現実を書き換える試みを内在しています。防衛としての怒りとは、偽りの希望を抱くことだと言えます。

けれども泣くことに抱えられた怒りはもっとずっと喪失に接触しています。それは、失われたものが本当に失われてしまったことへの怒りです。私たちは悲嘆に暮れ、喪の過程を通りすぎる中で、悲しみのうちにあって怒ってもいます。

「これは私が望んだ未来ではない」
「これは訪れるはずの未来ではなかった」
「誰が私から大切なものを、私から私を奪ったのか」

悲しみもまた訴えです。それは喪失という、あるべきでなかった現実への訴えです。悲嘆の悲しみの中で、私たちはただ小さく無力な子どもを生きているだけではありません。これは私が望んだ未来ではありません、と声を上げる大人の心があるのです。それは苦しみに満ちた瞬間に抗い、つながりを失うことに抗う、私たちの生きようとする意思の現れです。

私たちは誰かの体温があって悲しめます。悲しみの中で打ち下ろされた運命に抗っています。悲しむことはそのように、生きていく強さです。その先に失われた対象の回復があり、そうして私たちは損なうことなく失うことが可能となるのです。痛みを空に返し、風に悲しみを乾かすことができるのです。

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