施設養護においてよくあるかもしれない話

質問をいただいて、ある程度施設養育の中でよくある話であるかも知れないと思ってこの記事を書いています。


いただいた質問は、施設の中で職員が子どもに適切な関わりを持つと、その子どもがその職員の関心を引こうとしがみついたり、「試し」行動(という言葉は使っていなかったのですが)をするようになる時にはどうしたら良いか、というものでした。

シンプルに言えば、そうした行動が出るのは仕方がないし、表現された混乱に惑わされずに一貫性と予測可能性のある関わり方を維持することが求められるということになるのだと思いますが、その意味と大変さを書いてみたいと思います。アタッチメントパターンの話もしてみたいと思います。

1.アタッチメントの方略

アタッチメント研究では、子どもが養育者の間で安心を経験できるかどうかということに応じて、アタッチメントの質を安定型と不安定型とに分けています。そして、子どもが恐怖の強い状態におかれると非組織状態のアタッチメントを形成するとしています。

このことを論じたMainの議論はこうです。子どもは養育者から適切な応答が返ってこないと、養育者からの否定的な応答を減らし、必要な応答を引き出すように、自らの行動を組織化します。その1つが回避型と呼ばれるパターンであり、もう1つがアンビバレント型と呼ばれるパターンです。これは、養育者との関係を維持するための防衛的なパターンであり、本来の安心感を得られないために、二次的な安心感を得ようとする二次的な方略であると言えます。ところが養育者の応答の不適切さが子どもの防衛や方略の範囲を超えると、子どもは強い恐怖に晒されます。防衛や方略は部分的に破綻して、その組織化が崩れます。これが非組織なアタッチメントと呼ばれるものになります。

したがって、アタッチメントのパターンにはスペクトラムを想定することができます。一方の端に安定型があり、他方の端に非組織型があります。しかしながら通常の直線的なスペクトラムとは異なり、アタッチメントパターンは円弧状に広がるスペクトラムを持っていると私は考えています。つまり回避型方向のスペクトラムとアンビバレント型方向のスペクトラムです。

回避型方向ではアタッチメントシステムの不活性化が主要な方略となります。アタッチメントに関する出来事や経験から注意を逸らし、シグナルの表出を抑制します。その目的はアタッチメント対象からの拒否を減らすことです。アンビバレント方向ではアタッチメントシステムの過活性化が主要な方略となります。アタッチメントに関する出来事や経験に注意を集中し、シグナルの表出を誇張します。その目的はアタッチメント対象からの応答を引き出すことです。どちらも行き着く先はどうやって養育者との関係に安心を経験したら良いか分からない非組織状態です。

このスペクトラムを発展させたモデルとして、Crittendenらの力動的成熟モデル(DMM: Dynamic Maturational Model)があります。

過活性化と不活性化はアタッチメントシステムの活性化という点において質の異なる活動です。たとえば養育者に怒りを持っているとして、過活性化では怒りが養育者との距離を近づける作用を持ちます。どんなに養育者に怒りをむけて不満を述べたとしても、それは養育者からの応答を求めたものとなります(そのため、アンビバレントな言動が生まれます)。他方、不活性化では怒りは養育者との距離を遠ざける作用を持ちます。養育者への怒りは諦めや心理的引きこもり、あざけりとして養育者を不要なものとして扱います。その意味でこのスペクトラムは異なる方向性を持っています。

臨床的にはこの区別がつくと、子どもや大人の言動の意味を捉えやすくなります。

ところが、子どもによっては(大人の場合も)この質の異なる活性化方略を同時に示す場合があります。怒りが養育者を近づけるように、養育者からの応答性の低さをなじって応答を引き出そうとするかと思うと、今度は養育者を遠ざけるように、養育者の存在を視界から外し、あるいはおもちゃを壊すかのように破壊性を向けたりします。前者には抗議のニュアンスがありますが、後者には無関心さや冷淡さのニュアンスがあります。そのように過活性化と不活性化の不意の交代が見られることがあります。

こうしたアタッチメントのパターンを、分類不能(cannot classified)と呼んでいます。アタッチメントパターンの測定において、分類ができない、という研究上の名前です。この分類を知っている人も少ないと思いますが、それは確立された評定基準がないからです(分類不能の評定可能性というのは奇妙に聞こえますが、基準が確立されれば分類の名称が変わる可能性はあります)。

これらのいずれかのアタッチメントの活性化が、子どもの関わり方の問題のベースにあると考えられます。

2.いわゆる「試し」行動

「試し」行動という名前が適切か、という議論があります。近づいたかと思うと遠ざかり、気を引こうとしたかと思うとはねのける行動は、大人からすると振り回されているように感じられます。それを愛情を確かめている、とか、どこまで許されるか試している、と考えることで、大人の側が落ち着きを取り戻せるという良さはあるかも知れません。けれども、もしもこれが愛情を確かめたり、限界を試しているのであれば、それを確かめることで行動は収まるはずです。

行動は収まるでしょうか。

実際のところ、こうした「試し」と呼ばれている行動は目標を欠いた行動だと言った方が適切に思えます。どこにたどり着いたらゴールであるのか分からないまま、多様なシグナルの表出をするために、大人の側も何が求められているか分からなくなって疲弊するのだと思います。そう考える方が、実情に合っている気がします。「試し」という程に行動は組織化されておらず、方向性を持っていません。つまり、無秩序で無方向な、非組織なアタッチメントの活性化が起きている状態だといえます。

そしてこれはどちらかというとアンビバレント型のスペクトラムのどこかに位置づけられるものに思えます。というのも、「試し」行動と呼ばれるものはそれ自体、抗議とニードの混ざり合ったものだと考えられるからです。気を引こうとしたり、悪態をついたり、それらが全体として職員の応答を引き出そうとするのであれば、アンビバレント側に位置づけられます。もしも、施設から飛び出してどこかに行こうとしたり、調子の良い時だけ近づいてくるようであれば、その時は回避型のスペクトラムを考えられます。前者は苦痛への応答を求めますが、後者は苦痛に近づかせることなく機嫌の良い時だけ近づいてくる、という点で区別ができるかも知れません。

ひょっとすると子どものばらばらな行動は、分類不能とカテゴライズできるパターンから生まれているかも知れません。パーソナリティがまとまりを欠き、質の異なる活性化が交代します。怒ってはいるけれども情緒をぶつけてくる関係と、怒りがあるかどうかにかかわらずまったく情緒を欠いた冷めた距離のある空気が生まれる関係と、その感触に自覚なく振り回されているかも知れません。それは非組織化がさらに亢進して、もはや両方の特徴を兼ね備えた状態だと考えられます。

そうした違いはありますが、臨床上、このパターンを区別できなければいけない、ということもありません。どの場合にも非組織化が前面に出ているのであれば、子どもたちを動機づけているのは強い恐怖であり、方略(パターン)は部分的に破綻しているからです。恐怖が子どもたちに混乱をもたらしています。とりわけ、職員に近づくことが恐怖を引き起こすような、関係性の外傷に根ざした恐怖は、それ自体が取り組むべき課題です。

2歳までの乳児であれば、こうした恐怖は恐怖として緊張に満ちた表情、情動的な興奮、解離性の無感動さなどのような形で示されやすいと思います。3歳を超え、6歳近くになると他者を動かすような操作性や、問題ばかり起こして自分の内面を見せないようなより強い防衛を身に付けるかも知れません。その1つ1つは検討する価値のあるものですが、それでも関わりの困難さを抱えた子どもたちについては、アタッチメントパターンを理解し、そのアセスメントが出来ることよりも、ざっくりと、子どもは近づこうとして怖くて、何が安心かも分からないために目標を欠いた状態にある、と考える方が有用であることが多いように思います。

というのも、こうした混乱した子どもを前にすると、職員の思考力も低下するからです。振り回され、嫌がらせをされているように感じられ、主体性を奪われたり、人間として扱われていないように感じられ、怒りや無力さ、惨めさ、息苦しさ、拘束感を覚え、そのことに心を奪われやすいからです。そのような状況では、考えようとしても頭の整理がつかないか、理屈っぽい考えしか沸いてきません。平たく言えば、考えるための心が働かないからです。それは子どもに対応する職員にとっても、それを見ている他の職員にとっても同じでしょう。対応は柔軟性を欠き、余裕のないものになります。どうして良いか分からなくなるか、場合によっては子どもと一緒にエスカレートするかも知れません。

どちらのスペクトラムにあるかが分かると子どもの言動の意味を捉えやすくはなりますが、しかし子どもの言動が秩序立っていない時には、大まかに、近づきたいけど怖くてどこに向かっているのか自分でも分かっていないのだなと思うくらいが、落ち着いて事態を眺められるように思います。

分散分析をやって主効果が有意であった時に、下位検定の結果を論じるよりも、ざっくりと要因の影響があると考えるくらいで事態の把握になっているのと似たようなものです。

比喩として分かりにくいでしょうか。

恋人が不機嫌で、あれこれ文句を言っている時に、言っている中身の1つ1つについて考えるよりも、お腹が空いているのだなと把握する方が正解であるのと一緒です。文句の方向性に回避型とアンビバレント型のパターンが分かれるとしても、取り組む焦点は空腹です。分かるでしょうか。

しっかり話を聞くとか、受容するとか、寄り添うとかではなく、アタッチメントの活性化に目を向けるというのはそういうことです。私たちは言葉に頼りすぎて、言葉で表現されているところに対応しようとしすぎるところがあります。

3.一貫性と予測可能性

重要であるのは恐怖や苦痛です。その中身は子どもによって様々です。攻撃されることであるかも知れません。批判されることであることもあるでしょう。場合によっては罪悪感を感じさせられることであるかも知れません。冷たい態度を向けられることかも知れません。関心を撤退されることも幼い子どもには恐怖です。施設入所前の経験で、親が混乱した姿を見せるようなことがあれば、それが思い浮かぶかも知れません。物が飛んできたり、大人同士でいがみ合うことを恐れているかも知れません。大人の視界に入らないこと、忘れられること、見えなくなることが怖いのかも知れません。大人がいなくなってしまう、どこかに消えてしまうことも恐怖でしょう。あるいは親の自殺の脅し、殺害の脅しなど自分や大切な他者の生命の危機を覚えるような強い恐怖もあったかも知れません。殺されそうになった経験を抱えて施設にやって来る子どもは少なくありません。主導権を奪われ、主体性を失わされるような自由意思の否定、命令、精神的束縛のようなことを思うのかも知れません。大人に同意を強要されるかも知れません。大人はすぐに機嫌が悪くなってしまうと思うかもしれません。無能さを突きつけられることを過剰に警戒しているかも知れません。子どもが経験するかもしれない恐怖を数えれば、枚挙にいとまがありません。

子どもたちの心にそうした外傷が根づいているのであれば、どうしたって問題は現れます。落ち着いた環境の中で、安定した関わりの中で、子どもが不安定になるのは仕方のないことです。たとえば、暑い夏の日にエアコンの効いた部屋に入ると、途端に汗が吹き出ます。人の身体はそのように危機状態が過ぎ去った後にその危機への反応を表します。それが生き物としての仕組みなのであれば、施設の中で問題が生じることは、(施設の中に問題があるのでなければ)回復のための前進です。暑い夏に汗をかくなというのが無理な注文であるのと同様に、施設の中で問題が起きないようにすることも無理な注文です。

求められるのはこれに持ちこたえる大人の対応です。

言葉は役に立ちません。約束は守られないものであったでしょう。安心は達成されないか、裏切れてきたでしょう。経験のないところで言葉は意味を持ちません。むしろ、こうした子どもたちに必要なのは、とりわけ子どもが幼ければ幼いほど、言葉ではなく行動だろうと思います。現実に言葉が添えられて初めて、言葉は現実を代替します。もちろん言葉で表現することは重要です。けれどもそれは現実と言葉を結びつけて、言葉が現実の変わりになっていくために重要なのであって、まずは現実がなければ、言葉は機能できません。

たとえば、子どもがしがみついてあれこれ要求してくる時に、言葉を分かり始めた子どもに「ちょっと待ってね」と言っても効果はありません。「ちょっと」が「どれくらい」かも、「待って」いたら「どうなるか」も分からないからです。実際に待って、求めていた応答が返ってくる経験があって初めて待つということが可能になります。「待つ」という言葉が意味を持つのはそれからです。「ちょっと」の意味する時間が延びていくのはその後でしょう。待ってもらうためにはごく短い時間でなければならないかも知れません。待たせている間目を合わせることで子どもの不安を軽減することも必要かも知れません。子どもの視界から消えるのであれば声を出してそこにいることを示さなければいけないかも知れません。ほんのわずかな待つことのためにも工夫が必要です。待った後には子どもの要求に応える必要があります。そうでなければ、子どもにとって待たされることは誤魔化されることを意味するようになってしまうからです。もしも要求に応えられないのであれば、待たせることなく要求に応えられないことに取り組む必要があります。少し時間が経てば忘れるだろうと期待することは、子どもに世界は信用のならないものだということを教えることにつながります。子どもが先に関心を無くして、要求に応える必要がなくなるのであればそれはそれで構わないとしても、大人が先に嘘をつくと、思い掛けないしっぺ返しをくらうことになります。職員には言動の一致が求められます。

同じことは言葉を十分に使えるようになった子どもにでも起こり得ます。もしもその子どもが待つということを信頼できるものだと経験していなければ、同様の対応が求められるでしょう。

言葉の前にまず経験が有り、経験を生み出すための大人の応答が必要です。その意味で職員の対応は、一貫性と予測可能性を備えていることが重要になります。

とはいえそれは、いつも同じ対応をするということではありません。職員も人間なので対応に振れ幅が生じます。むしろ毎回の応答は必ずしも同じではないけれども、全体として一貫性と予測可能性を備えれ居れば良いのだと思います。これを実現するために、目標を見定めることが役に立つと思います。車の運転をする時には視線を遠くにやることを教わります。車のすぐ前を見るとまっすぐ走るつもりでふらふらしてしまい、遠くを見ることで運転は安定します。それと同じことです。多少対応が右往左往することがあっても、大きく目標に向かっていれば、だいたいにおいて対応は一貫性をもち、子どもにとってあてのあるものとなるでしょう。

目標は、苦しみを和らげることです。子どもがどのような言動を示したとしても、生き物として子どもは、本質的には心身の状態を落ち着けたいと思っていて(あるいはそのような方向に進むことが望まれ)、でもそれができなくてどこに向かったら良いか分からなくなっています。そのために大人の対応も混乱します。結果として落ち着くことができません。そのためになおさらどこに向かったら良いか子どもは分からなくなります。そうした解決不能性に動機づけられているのが今の困難な言動なのだ、と考えてみると良いのではないかと思います。

たとえば、着替えの時にうまく洋服が着れなくて、別の洋服が良いと言ったり、職員を叩いたり、ふざけ始めたり、他の子の邪魔をしたり、ぼうっとしたり、甘えてきたり、着替えをねだったり、悪態をついたり、職員のせいだと言ったりすることがあるかも知れません。「あっち行って」とか、「殺してやろうか」とか、「バカみたいな顔」とか言うことがあるかも知れません。それにも関わらず着替えを諦められるわけではなく、膠着状態になったりします。子どもの言動がころころ変わるとしても、この場合、焦点は「うまく洋服を着れない」ということにあります。洋服を着れない無力な自分に直面することの苦痛が子どもにとって耐えがたいのだと考えられます。それが子どもには強すぎる苦しみであるために、この調整が職員に求められています。洋服をうまく着れないということで叱責されてきた過去があれば、このことは直接に恐怖を喚起しているかも知れません。そうしたことがないとしても逆境的な環境で育ってきた子どもたちは、不快な情動を和らげる能力を発達させられず、したがって苦痛を和らげる力を持たないか、むしろそれを増大させてしまいます。養育の歴史を反映して、職員からの批判やあざけりを予想したり、職員が思ったように助けてくれるかに注意が注がれるかも知れません。はた目にはたいしたことのないことであっても、子どもには重たすぎる負荷になるということがあります。これをうまくこなせるように手助けすることが職員の仕事になるわけです。

その時に、子どものころころ変わる言動の向こうに、うまく着替えができない苦痛を見ることで、ある程度の一貫性を維持できます。子どもの荒れた言動は着替えの出来ない苦痛の副作用のようなものであって、その1つ1つに思い悩むよりも、着替えられなくてワーっとなっているという大ざっぱな理解のもとに、子どもも本当は着替えられるようになりたくて、だけれども着替えられないことが耐え難くなっている、ということを認識しながら、苦痛を和らげる工夫を重ね、着替えられたという状態に近づけていくことになるのだと思います。それがうまくいけば、着替えられるという経験がもたらされ、このことは、着替える能力があるという有能性(コンピテンス)につながるでしょう。

この時、子どもがアンビバレント型的であるのか、回避型的であるのかは、スペクトラムのどちら側を通って回復していくかの道しるべにはなります。子どもの恐怖や苦痛が強い時にはこれはあまり見えないかも知れません。もう少し落ち着いている時に、だいたい苦痛を共有して欲しがるのか、職員の所在を気にしてくっつきがちなのか(アンビバレント側)、苦痛な時ほど沈黙し、背を向けて、無関心を装うのか(回避側)を分かっておくと、今のこのひどい混乱に、どのような応答をすると良さそうかも分かるかも知れません。前者では職員の利用可能性に不安を抱き、怒りを向けています。困った時にはちゃんと助けることを伝え、子どもが苦しんでいることを理解していることを伝え、手を握り、頭をなで、といったことが落ち着きの積み重ねに役立つかも知れません。後者では職員との近接が強すぎる刺激となるでしょう。身体接触は少なめにして、言葉かけも少ない方が良いかも知れません。小さい声で指示を出すぐらいの方が熱心に関わるよりも「安全」であるかもしれません。それでも恐れているのは拒否されることです。そのことを頭に置いておくと、子どもの苦しみをバカにしたり嫌がったりすることはないとか、人に手伝ってもらうのはおかしなことじゃないとか、拒否の痛みに言葉をかけることができ、それが役に立つかも知れません。

残念ながらこうした時に、いつでもうまくいく方法はないように思います。けれども、時間をかけて何とか着替え終わるところまでたどり着くことができれば、そこで子どもは苦痛は和らぐこと、出来ないことも出来るようになること、人の手助けはあてになること、などを学ぶことが出来ます。「頑張ってやってみよう」とか「手伝ってって言ったら良いんだよ」という言葉が機能するのはその後です。

アタッチメントの活性化が何を目指しているのか分からないような非組織な時であっても、目標を見定めて、一貫性と予測可能性を保持し、呈示することが支援の内実になるのだと思います。

4.支援者を支援する人の役割

施設臨床において、施設内外の心理士や精神科医、あるいはスーパーバイザーは、このような状況で考える人の役割を担うことになるでしょう。どこに焦点を当て、何を目標とし、そのためにいつ誰が何をどうするか、混とんとした状況の中で落ち着いた心で状況を眺めるのがこうした人たちの役割です。

考えるべきことは3つあります。何が子どもの苦しみであるのか、何が介入の目標となるのか、誰がいつどのように関わるのか、です。

アタッチメントのシステムを活性化させやすい危機的な出来事は6つに整理することができると思います。

身体的な危機:眠気、空腹、疲れ、ケガ、病気、痛みなどの身体が弱っている状態
環境的な危機:知らない場所や人、暗闇、危険なものの存在など、災害などの外的危険
関係的な危機:不在、喪失、分離、無反応、拒否などアタッチメント関係の崩壊を示すもの
有能さの危機:失敗、挫折、能力の低さなど、外界に働き掛ける力の不足を思わせること
社会的な危機:疎外、孤立、いじめ、笑われるなど、社会的関係の中での危険
規範性の危機:規則違反、悪いことをする、罪悪感を覚えるなどの社会的規範を逸脱する行為

しがみつきや「試し」行動が出てくるということは、子どもなりに恐怖や苦痛な状況に対処して生き残ろうとしているということです。それが方向性を欠いた、無秩序なものに見えるとしても、その動機の水準では生存への努力があります。したがって、そうした動機を高めるような危機的状況が想定されます。子どもの言動がエスカレートする過程で、何が刺激となったのか、何が引き金となったのか、子どもは何に反応したと考えられるのか、といったことを抽出します。これが分かるだけで、子どもの無秩序さに振り回されにくくなります。

また、このことは、子どもにとってどのような出来事が、あるいはどのような関係のあり方が怖いものであるのかということを浮かび上がらせることにもなります。つまり、子どもはいつ難しい状態になるのか、ということの予測が立つということです。それは1つではないかも知れないし、別の時には別の出来事が浮かび上がるかも知れません。それでもそうした子どもの脆弱なところを知っておくと、子どもを恐怖の源泉から保護することができます。このことも職員が落ち着く上で役立つし、それだけではなく子どもにとって職員が当てになるための足がかりともなるでしょう。

こうした苦しみの読み取りが、考える人の役目ではないかと思います。

介入の目標は、子どもの恐怖やアタッチメントの活性化が収まること、何が恐怖の源泉であるかを子どもが分かるようになること、次に同じことがあった時にうまくこなせるようになること、苦しみを異なるやり方で表現するようになること、などと整理することができます。この中で最初に行うものは、まずは活性化を収めることだと言えます。怯え、警戒している状態では新しいことを学べません。むしろ慣れ親しんだやり方を繰り返し、しがみついたり、叩いたり、暴言を吐いたり、引きこもったり、解離したりすることが続きます。刺激となった出来事や関係から遠ざけるか、それを解決するか、もしくは両方を行うかして情動の調整を行います。しがみつきや「試し」行動はここから生まれてくるので、1つ1つの行動に対応するよりも、それを動機づけている恐怖や苦痛の低減を目指します。

アタッチメントの活性化を収め、苦しみを和らげるということは、たいていの場合気持ちの調整単独で行われるものではなく、たとえば、着替えを促しながら励ましたり、褒めたり、けれども着替えられない惨めさと怒りを念頭に、大変さに共感したり、エスカレートを防ぐために怒りに怒りを返さなかったり、終始落ち着いていたりすることで苦痛を和らげるような、目の前の恐怖の源泉を具体的に克服する活動の中に「織り込まれる」介入です。特に生活場面ではそうですね。心理療法であれば、苦しみがそこにあるということを共有することを通して、この低減を図ることになると思います。心理療法の「純心理性」はここにあります(そのような言葉があるとして)。

何が嫌だったのかとか、どう着替えたら良いかとか、叩いたり蹴ったりしないとかいうことはこの後の話になります。

そのように、どこに焦点を当てて、何を優先させるのか、あるいは色々なことをしながら何を中心に考えて応答を続けていくのか、という介入の組織化もまた、考える人の役目だと思います。

ところで、具体的にどういったやり方で暴力的な言動を収めるのか、どういったやり方でしがみつきに対応するのか、どういったやり方でころころ変わる子どもの言動に対応するのか、といったことを誰かの指示で実行するのはとても困難です。ビリヤードの球はちょうど良い強さでクッションに当てると、転がってきたのと同じ角度で跳ね返ります。クッションに60度の角度で当てると、クッションから60度の角度で跳ね返っていきます。ビリヤードの球やテーブルはそういうふうに作られています。けれども、この「ちょうど良い強さ」は教えることができません。この強さを数値で表しても人間はそれを再現できません。入射角と反射角が同じになるような強さがちょうど良い強さなのだと、練習をするしかないわけです。それはある人の感覚としてはちょっと弱めかも知れません。別の人の感覚としてはちょっと強めかも知れません。それと同じで、落ち着いて対応することが必要であるとして、その程よさは結果を見ながら調整するしかありません。したがってあらかじめ必要な対応を言葉としては共有できても、それけで実行に移すことはほぼ無理なことです。

考える人の役割はしたがって、これまでの施設での生活の中で、誰がどのような関わり方をしたのか、それによって子どもはどのように変化したのか、その連鎖を明らかにして、これを使って望ましい介入と望ましくない介入を選り分け、それがどうしてかを説明し、次に同じようなことがあったときには望ましい介入を行い、望ましくない介入を行わないかアレンジを加えることを説明することになると思います。新しく「正しい」介入を教えることよりも、すでに行われている関わりの中から使えるものをピックアップする、という形で、支援の在り方を整えるということができると、職員は自分がいつ何をしたら良いかがつかめ、すぐに支援に活かせるのではないでしょうか。その実感に説明が加わると、これが職員への心理教育として作用するように思います。

実際のところは新しい考え方、新しい見方、新しい応答の仕方を導入することは欠かせません。特に職員がこれまでとは違うアプローチを取り、あるいは新しいことを学ぼうとしている場合にはそうなるでしょう。それでも折りに触れて、すでにある望ましい対応を拾い上げられると、職員はすぐに使える応答を手にしていることになります。

このことはまた、職員が自分のしていることに有能さを感じられるという点でも重要です。自分の仕事に手応えがあり、何かができている実感があると、成長を感じることができます。すでに行われていることの中から手立てを拾い上げることは、自分が肯定される経験であるかもしれません。そのように職員の成長を助け、仕事を支えることができるかもしれません。

これができれば、考える人は物理的にも心理的にも支援者を支援することができるわけです。


うまく進めば、子どもの苦痛は職員によって和らげられ、それによって方向を失った無秩序な行動はだんだんと整えられていき、それと同じように、職員の混乱は考える人によって支えられ、その言動は段々と整えられていきます。そのように支援は多重化されて展開します。「試し」行動をする子どもを1人で支えるのは困難です。それだけの深刻なダメージを負ってきたからです。途方もない混乱は、施設によくあるかもしれない話です。問題が現れることを止めることはできません。私たちは支援者として、ただ、この子どもの抱える困難を少しずつ分かち持って子どもたちを支えていくのです。この時に、表に現れる言動の1つ1つにではなく、これを動機づけている苦しみに目を向けることができれば、取り組むべき課題を見失わずにすみます。アタッチメントの視点はそのように、役立てられるのだと思います。

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