戦争に寄せて

2022年2月24日、オリンピックが終わり、まだパラリンピックが控えている時に、ロシアがウクライナに軍事侵攻を開始しました。一晩のうちにウクライナ全土に軍を展開させる衝撃的なスピードでした。第三次世界大戦が始まる危機感に世界が揺れました。

ウクライナはソ連崩壊後、親ロシア派の政権によって運営されており、それが長い反対運動の末に2014年に倒されました。それからウクライナは西側諸国の軍事機構であるNATOへの加盟の動きを加速させます。それは、ロシアにとっては軍事的脅威をもたらすものになりました。このようなウクライナは西欧による傀儡国家であり、ファシスト政権であり、その「非軍事化と非ナチス化」を行うために軍事作戦を開始した、というのがロシアの言い分です。

国連では当然のようにロシアへの即時撤退を求める決議案が議題に挙げられました。けれども拒否権を持つ安全保障理事会常任理事国5カ国のうちの1つであるロシアは、やはり当然のようにこれに対する拒否権を発動します。ウクライナ東部に新ロシア派の共和国が樹立されることを「認め」、この国民を守るための「特別な作戦」を行っているのだ、というのです。

もともとウクライナはグルジア、ベラルーシなどとともにソ連の一部であり、プーチン大統領にとってそうした国々がNATO加盟を希望することは、領土の喪失であり、また軍事的脅威を招来するものとなるわけです。プーチン大統領にとって領土問題は生命線です。「偉大なロシア」がプーチン大統領がロシア国民に見せる夢だからです。それに国民が同意するかどうかはともかく、北方領土の問題を棚上げし、共同経済活動の約束を取り付けた安倍元首相のもくろみが甘いと批判されていたのもそうしたことがあるからです。

ウクライナがロシアにとって西側諸国との西の緩衝地帯であるとすれば、北方四島は東の緩衝地帯です。グルジアやウクライナに生じていることは、一歩間違えれば日本にも起こります。北方四島ではすでにロシアの経済活動が行われていて、プーチン政権はこれを自国の正当な領土と見なしています。国際的にはサンフランシスコ平和条約より後、日ソ共同宣言によって歯舞、色丹の二島は返還されることになっていますが、これに対しても、日本からの独立を承認し、これを守るために軍を派遣するという選択肢を実行する可能性を排除することはできません。今国会で議論されている敵基地攻撃能力を高めるということは、この軍事的リスクを高めることでもあるわけです。

ロシアはまた核兵器を所有する国です。そしてプーチン大統領はその使用をためらわないことも匂わせています。ロシアの強硬な態度は世界に緊張感をもたらしました。その余波が国内にもあふれています。

戦争が始まったことを嘆く声が上がりました。戦争に反対を表明する声も上がっています。同時に、憲法九条を揶揄する声も上がりました。九条では戦争を防げないというのです。軍事力を増強させるべきだという議論もあります。それでも世界の平和のための連帯を強めるべきだという意見が弱まることはありません。後数年早ければ、九条を否定し、平和を願う声は無力な平和主義として嘲笑され、社会の動きから退けられていたかも知れません。この数年間でそうした冷笑的な「中立性」「客観性」への耐性が高まってきたように思います。

戦争は圧倒的な暴力です。その前で一人一人の個人は無力です。暴力に対して暴力を返すことでこれを防ごうとすることは、それなりに合理的な動きだと思います。殴られたままになっていれば暴力が収まるわけではなく、収まったとしてもケガを負い、精神を支配されているかも知れません。身を守る手段が必要です。けれども世界はこの圧倒的な暴力を前に、力を共同的なものとして使用することを選びました。各国が個別に武力を行使するのではなく、連帯を図ることで強い力を形成しました。その象徴が国連です。

それは、一人一人が暴力を行使して身を守ることを放棄して、より大きな共同体に力を委ねる構造であると言えます。警察もそうですね。一人一人が暴力に暴力で抵抗するのではなく、力を委ねられた警察を呼ぶことでこれから身を守るわけです。そのために警察は信任される必要があるし、市民は警察に協力する必要があります。力を集めて共同的なものとして使用することを、やはり共同的に管理することが、近代国家における力の行使なのだといえます。

それでも圧倒的な暴力を目の前にした時に、私たちが無力であることに変わりはありません。テレビやネットの向こうに映る爆撃に、そこから逃げていく市民に、地下鉄に逃げ込み夜を明かす人々に、戦場に向かうために娘との別れに涙する父親に、爆撃の中綴られるツイートに、空港を占領した軍隊に制止されるレポーターの姿に、為す術もなく晒される他ありません。

今私たちに起きているのは、こうした圧倒的な危機に対する圧倒的に無力な状態なのだと思います。そして、そこで生じることの多くが、この無力さへの反応であると言えます。無力な中で祈る平和はやはり無力なのでしょう。けれどもそこで生じる嘲笑に何かの力があるのでしょうか。勇ましさに実効性があるでしょうか。嘲笑は惨めさの逆転であり、結局のところ無力さを他者へと移動させているに過ぎません。手をつなぎ、連帯をすることは、安らぎと落ち着きをもたらします。それが無力な祈りであるのか、抵抗の始まりであるのかは、誰かが決められるものではありません。世界の各地で、ウクライナの国内で、そしてロシアの国内で、軍人の中からも、戦争に反対する声が上がっています。これに力を与えるのが共同的な枠組みです。西側諸国は経済制裁でこれに応じることにしています。ロシア国内外での抵抗は個々の兵士の士気にも関わるでしょう。反戦を願う声が大きくなるほどに、ここに力が生まれます。今度はプーチン大統領がこの無力さに抗うことになります。世界はどこへ転がっていくのでしょうか。

今起きていることをよく覚えておこうと思います。今起きている一人一人の反応は、その人が圧倒的な無力さに襲われた時の反応のサンプルです。誰が怒り、誰が悲しみ、誰が嘲笑し、誰が囃し立て、誰が祈り、誰が行動し、誰が無関心であるのかがここに映し出されています。誰が目をそらし、誰が心を休め、誰が心を痛めているかが表されています。何かが必ず正しいわけではなく、何かが必ず間違っているわけでもありません。色々な人にいろいろな生活があります。それでもここに人の姿が映し出されています。それを忘れないでいましょう。

そして、今回のロシアのような言い分で、イスラエルも、アメリカも、サウジアラビアも他国への侵略行為や軍事行動を起こしています。シリアやミャンマーでは政権に対する抗議活動に軍隊を出して鎮圧を図っています。中国はウイグル民族の浄化を図っているとされています。もっといろいろな場所でもっと凄惨で、もっと悲しい出来事が起きているに違いありません。そのことも忘れないでいようと思います。

実際のところ、国連とは第二次世界大戦の戦勝国による枠組みです。その枠組みで世界を統治しようということの制度疲労があちこちで起きているように思います。安全保障理事会の常任理事国の代理戦争としてアフリカや中東が紛争の舞台になっているからです。アフリカや中東や南米やアジアの発言権がどれくらいあるのでしょうか。ロシアが直接に戦争を開始したとはいえ、実質的にあちこちで戦争は行われてきました。共同的な力が共同的に管理されない問題はこれまでもあったのです。そのことも思い出さなければなりません。

それでも圧倒的な暴力をエスカレートさせることなく抵抗することができるのは、弱い力の連帯です。無力さに打ちひしがれても良いので、ゆっくりを呼吸して、身体を休め、何かを嘲笑い、分かった顔をすることなく、日々の生活を送り、顔を上げて反戦を願います。子どもたちに怖く、悲しい思いをさせることを憎みます。その憎しみを暴力に変えることなく、作用する力に変える道を探しましょう。そこから始めるしかないのです。

どうか早く戦争が終わりますように。どうかたくさんの人が死ぬことなく生き延びれますように。どうか子どもたちが笑って暮らせる日々が戻りますように。

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