米澤氏の「愛着障害」本について:実践編

前回の記事からだいぶ時間が経ってしまいました。内容を要約するのが大変だなと思って手が止まっていたのですが、何となく再開してみる気分になってきたのでもう一度読み直してみました。

思ったところは前回とそれほど変わらないかなと思います。

実践編は理論編よりはひどくないということを書きました。今でもそう思います。首肯する記述やなるほどと思うところも散見されます。今回読み直して思ったのは、とは言え、ちょっとリアリティに欠けるんじゃないですか、ということでした。本当にこんな支援をしているのでしょうか。

理論編は内容をまとめやすいのですが、実践編は事例の理解と対応的に書かれているため、そう簡単にまとめることはできません。ひとまず今回の『愛着障害(ハート記号)愛着の問題を抱えるこどもを、どう理解し、どう支援するか?』の中では、1〜数行の事例が質問形式で「現象」として書かれていて、それについての「原因と意味」「してはいけないかかわりとは? 適切な支援とは?」「支援のポイント」といったことが整理されています(米澤氏はこれをワークシートと呼ぶのですが、特にワークの要素もないので理解と対応のまとめではダメだったのかなと思っています)。その中で支援の方法論については比較的一貫しているように思いますので、そこを中心にまとめてみたいと思います。具体例は後で記述します。

事例(というよりも「現象」ですね)の理解は、理論編でまとめた視点で論じられていきます。つまり、「愛着障害」(前回に引き続きカッコ付きで記します)の3大特徴である愛情欲求、自己防衛、自己評価の低さ、その基盤となる安全基地、安心基地、探索基地という3つの基地機能の不全といった概念です。感情の未発達という考えも使われます(ずいぶん雑な表現ですが、アタッチメント研究の中で覚醒制御や感情調整の問題と考えられていることとメンタライジングの問題と情動の質そのものが未分化であることとが混ざった話だと思います)。愛情の器はあまり出てきません。これらは前回批判したように、アタッチメント研究者たちが共有している概念とは異なるものですので注意が必要です。この記事の中では(私が誤解しているのでなければ)米澤氏の使い方に沿った言葉遣いをしていきます。

その理解にもとづいて、いくつかの種類の支援を使っています。おそらく別の書籍に当たると、この支援の方法について、理論と系統立てて解説がされているのではないかと思いますが、今回はそこまで読み込んでいません。ですので、以下のまとめ方は米澤氏からすると適切でないまとめ方であるかも知れません。あくまで私が読んで理解したところのものです。名称は正式名らしきものを取り上げていますが、地の文に混ざっていたものもあります。順番は出現順で、多少順序を入れ替えています。

感情の言い当て
後から振り返り
安心基地作り支援
 違う行動に誘う・違う気持ちに逸らす
 役割付与支援
 愛着対象意識を喚起
 褒められたらどんな気持ちになっていいのかを指定して褒める
 感情のラベリング支援
情報提供
主導権を握る
 先手支援
 感情確認後の代替行動支援
 行動始発支援
 スモールステップ行動支援
 予期・予知を装う
 別行動提案支援
 行動限定感情確認支援
 参加支援
 予告+予定行動支援
キーパーソン
認めつつ逸らす支援

「感情の言い当て」はネガティブな感情を淡々と言い当てることを指していて、それで何かをもたらすとは考えられていないようです。「感情のラベリング支援」と似ているようですが、後者は安心基地作りの中で、大人が主導権をもって喚起させた感情に対して言語化するのに対して、前者は子どもが自発的に経験した感情について触れることのようです。

「後から振り返ること」は落ち着いてからネガティブな感情の振り返りをすることのようです。

「安心基地作り」は頻出するものですので後から取り上げます。

「情報提供」はあまりよく分かりませんでしたが、大人の叱るという行動は、その行動が良くない行動であることを知らせている、という文脈で使われていて、もう一ヶ所くらい出てきたような気がします。

「主導権を握る」ことも頻出するものですので後から取り上げます。この書籍の支援を一言でまとめると、キーパーソンを設定し、キーバーソンが主導権を握って安心基地作りをする、ということになるのだと思います。一見問題のなさそうなこの対応の問題点も合わせて後で論じます。

「キーパーソン」についても後述します。

「認めつつ逸らす支援」は「違う気持ちに逸らす」と似ていて、ネガティブな感情によって行動が生起した際に、違う行動に誘うことを指しています。その時にネガティブな感情を認めるかどうかの違いがあるようです。後者を文脈から安心基地作りの中に入れましたが、前者も入れても良いのかも知れません(あるいはどちらも外しても良いのかも知れません)。

ここから、本書の支援の中心と思われる「キーパーソンを設定する」「主導権を握る」「安心基地作りをする」ということについて理解したところをまとめていきます。

あらためて、本書の構成ですが、後半の実践編は、「I:感情への支援」「II:行動・現象への支援」「III:ASD+ADの第3タイプの愛着障害への支援」「IV:保護者支援」と並んでいます。「愛着障害」の中心は情緒・感情の絆の障害と考えられているため、感情への支援が中核となり、これを踏まえて行動・現象への支援が構成されているようです。ASD+ADはDSMでは認められていないが実際には存在している3つめの愛着障害である(と米澤氏は主張する)ために、特別に1節を設けているのだと思います。保護者支援については対象が異なるためここでは扱いません。実践編の中核は「感情への支援」と「行動・現象への支援」であり、さらにその中心は「安心基地作り」であると言えそうです。

この「安心基地」ですが、前回も指摘したように、英語はrestful & relax baseをあてています。誰かといると落ち着いたりほっとしたりするポジティブな感情を生じさせることが、その機能だとされています。したがって、このポジティブな感情の生起させることが支援の中心だということになります。

「愛着障害」はまさに愛着の障害であるために、特定の誰かとの間でこのポジティブな感情が経験されなければなりません。そのためにキーパーソンを設定します。学校であれ、幼稚園や保育園であれ、学童であれ、あるいは施設であれ、その中で子どものことを一番知っている人になります。逆にキーパーソンを設定するときには、その人が子どものことを一番知っているように、どんなささいな情報もキーパーソンに集約します。キーパーソンは子どもにとっての重要な人物で、その現場における子どもについてのあらゆる決定がキーパーソンの主導のもとで決められ、他の大人(以降、職員とします)が何かをするときには、子どもの前でキーパーソンがその職員に指示を出す、とか、子どもの前で別の職員に部分的に権限を委譲する手続きを取る、とか、他の職員はキーパーソンの価値を落とすような言動をしてはいけない、とかいうことが言われます。

そして、このキーパーソンが子どもに対して、主導権を握ります。子どもが何か要求をしてもそれに応えてはいけないし、子どもが何か自発的にしたことに対して褒めてもいけません。それは後手に回った支援です。あたかもキーパーソンが(あるいは他の職員が)子どもについてすべてを知っていて、すべてを分かっているような状態を作り出し、その主導権のもとで子どもにポジティブな感情を経験させる必要がある、ということが本書で何度も強調されることです。というのも、「愛着障害」の子どもは感情が未発達で、自分の感情も他人の感情も分からないし、要求に応えれば愛情欲求が肥大し、自己評価の低さを補うための優位性への渇望を満たして、自己高揚を味わうことになるからです。叱ったり批判したりすることもしてはいけないかかわりになります。自己防衛が強くなるからです。かといって無視をするとか反応しないとかいうことも子どもの反発を強めることになります。

適切であるのは、キーパーソンの主導のもとで、ポジティブな感情を経験することです。そのために、ネガティブな感情やそこから生じている行動、子どもの注意を、今ある状態から逸らします。大人は子どもを別の活動に誘って、その中で子どもを認め、褒め、そこでうまくやれている子どもの状態に対して、「先生と一緒にこれをやると、良い気持ちになるね」と伝えます。この言葉は、愛着対象の意識を喚起することと、どういった感情を経験して良いかを指定することと、その感情にラベルを付けることを意図したもので、それによってポジティブな感情を経験できる安心基地を子どもが形成できるように支援していることになります。この手続きの中で特に繰り返し登場するのが、役割付与支援です。たとえば子どもが下のきょうだいに対して母親を独占したがっているとしたら、(おそらくその時には子どもに反応せず、別の機会に)母親の主導のもとでその子どもと母親の1対1の時間を作って、その中で母親が子どもに役割を与え、その役割を果たす中で子どもが母親に褒められる経験をし、次に子どもに与える役割を下の子どもを世話することで褒められるものへと広げ、それによって下の子どもへの態度が変わる、というような支援のイメージであるようです。大人が枠を作り、その中で子どもが評価され、それによって子どもが心地よい経験をし、関係の中で良い体験をしたことを自覚させ、安心基地を形成する、そのための細々とした手続きが列記されていく、というのが本書のワークシートの作りのようでした。

良い点は、理解や支援の方法に同意できるものやなるほどと思うものが少なくないことです。特に理解に関しては、全面的ではないもののそうだなと思うことがあります。対応についても、母子分離不安への対応など、実際にうまくいくかは別として、考え方としてヒントになるところはあります(「母子」は不要ですが)。

もう1つの良い点は、理論的に一貫しているところです。話の筋はある程度通っています。ポジティブな感情を優先するのは、ネガティブな感情を和らげる安全基地機能の形成は感情の未発達のために困難で、心地よい経験をする安心基地機能から始める必要があるからです。愛着の問題なのでキーパーソンが必要です。感情の未発達な「愛着障害」に対し、後手の支援は問題を強めるだけになってしまいます。こうした話の筋が一貫していることは、支援の一貫性をもたらします。同時に批判も可能にします。それは大事なことです。

悪い点は、その一貫性が2つの意味で適切でないことです。1つは前回述べたように、アタッチメント研究の成果からかけ離れた、独自の理論になっていることです。これを愛着で説明しないのであればまだ良いのですが、愛着(アタッチメント)として語ると批判せざるを得ないところが多々あります。もう1つは、行動・現象の理解と行う支援に一貫性が欠けているところがあることです。理屈としては一貫しているのですが、個々の対応を見てみるとこの一貫性が崩れています。この後で具体的に取り上げます。

もう1つの悪い点は、支援にリアリティがない(ものがある)ことです。これもこれから取り上げます。

引用しながら論じていきます。p47-48にかけての記述です。全部を引用した方が誤解がないと思うのですが、段落ごとに部分的に取り上げていきます。主導権を握ることと安心基地作りに関することです(キーパーソンについては長くなって取り上げられませんでしたが、以下のような対応をキーパーソン中心に行うということのようで、そこまでのこだわりが必要だとも思いません。担任や担当など主たる大人がいるとしても、理解と対応が大人の中で共有されていれば良いのではないでしょうか)。

❶ 現象
褒めているのに、行動が改善しないのはどうしてでしょう?

私であればこれだけの情報でコメントできる気がしませんが、ひとまず続きを見ていきます。

❷ 原因と意味
褒められて一瞬、ポジティブな感情を感じたとしても、どの人がいつもそのポジティブな感情をくれるのかを意識できなければ、安心感にはつながりません。……

「いつも同じ」というのは上で書き忘れていた本書の大きな方針の1つです。どうやって安心感につなげるかが次に続きます。

安心感の源である自己肯定感を養うのが大切ですが、自己肯定感から褒めると失敗しやすいのです。褒められたら「自分が褒めさせた」と受け止められます。褒めることが単にその子の自己高揚を増幅させているだけでは、褒めたことによる行動の変化にはつながりません。

褒められたら自分が褒めさせたと受け止められる、というのが後手支援の問題点だという問題意識は本書で一貫しています。

……そのこどもが愛着障害であるということは、感情認知、感情のコントロールができない、感情が未発達ということです。その状態で要求に従う、応える対応は、かえって、コントロールがつかない状態に落ち込んでいくことになりやすいのです。

アタッチメント障害の理解の違いはすでに述べてきたのでここでは触れませんが、情動発達が不十分であることをもって、褒められるとコントロールがつかない状態になるということは言えないし、まして自分が褒めさせたという自己高揚につながるということは想定しづらいです。もちろんその議論は何をどのように褒めるか、ということによりますが、米澤氏は何であれ子どもが求めているものを褒めることは問題となると言います。そうでしょうか。この話題には後から戻ります。

❸ してはいけないかかわりとは? 適切な支援とは?
その場限りの無責任な対応として、褒めても叱ってもうまくはいきません。
→いかにして、ポジティブな感情を継続させて、その気持ちを持続できるか、ネガティブな感情は切り離して、その気持ちを切り替えられるか、という感情支援の視点が必要です。

その場限りの対応はうまくいかない、ということには同意しますが、その理由がここでは、ネガティブな感情を切り替え、ポジティブな感情を継続させる感情支援の視点がないからだと言います。こちらにも同意できるような気もしますが、そういう問題なのかなという不全感も残ります。より具体的な対応は次に出てきて、そこでこの問題点は明らかになります。

自分が自分で良いんだ……という気持ちの自己肯定感を意識した褒めは、かえって本人の自己高揚を増幅して、支援する人に対する主導権を強め、褒めれば褒めるほど、逆効果になります。
→まず、自分はこれをすればこの人の役に立っていると実感する自己有用感を感じられるように、「この役割をして」と役割付与支援を活用して、「先生がお願いしたこの役割をしてくれてありがとう〜ありがとうと言われると嬉しいね」と褒めます。その役割の遂行を確認しながら、どんな効果がでているかを「〜するのが得意だね、上手だね」と褒めて、「自分はこれができるんだ」という自己効力感につなげます。そして最後に、「あなたが役に立とうと立つまいと……そんなこととは関係なく、あなたがあなたでいるだけで大好きなんだよ。自分でも好きだよね」と自己肯定感につなげるように褒めるのです。

自己肯定感を持つにあたって、「愛着障害」があると自己高揚(自己愛と言い換えると分かりやすいと思いますが、アタッチメント理論に自己愛概念はないため、安易に自己愛と言わないところは好感が持てます。知っていてやっているかは疑問ですが)にしかつながらないので、無条件の肯定的関心のようなものは問題だというわけです。むしろ役に立つという有用感を経験し、できるという効力感を経て、肯定感を築く必要がある、と言います。

自己肯定の感覚というのは、具体的な相互作用の積み重ねの結果として生じるものなので、確かに最初から自己肯定感を持てるかというと、それはアタッチメントの問題を多く抱えた子どもにとっては難しいでしょう。「あなたが役に立とうと立つまいと……そんなこととは関係なく、あなたがあなたでいるだけで大好きなんだよ」という態度や言動で、ぱっと子どもが変わると考えているとしたら、それは楽観的にすぎます。でも、だからといって子どもが自己高揚を高めるにすぎない、という想定には賛同しづらいです。そういうこともあるし、そうでないこともあるのが現実ではないでしょうか。

また、最初に自己有用感から始まる、という想定もよく分かりません。通常の子どもではなく「愛着障害」だから、というのですが、それでは「愛着障害」であっても有用感を経験できるのはなぜなのでしょう。

アタッチメントの問題を抱えた子どもたちには、不適切な養育を受けてきた歴史が考えられます。そのため、大人に言われて動くことに極度にアンビバレントであったとしてもおかしくありません。大人が枠組みを作って役割を与え、褒めることに、それほど容易にポジティブな感情を経験できるものでしょうか。

解決不能な恐怖という概念があります。養育者の関わり方が子どもの安心感(アタッチメント理論における本来の安心感です)という点から不適切であると、子どもは養育者に近づけば恐怖を感じるし、かといって養育者から遠ざかればアタッチメントの仕組みが動いて近づきたくなり、結果的にどうしたら安全で安心な関係を持てるのかが分からなくなる恐怖の状態を指す概念です。アタッチメントの問題を抱えている時には、こうした恐怖をめぐるアンビバレンスがあって、これを前提にすると、学校場面でも確かに「役に立ちたい」という子どもの希望が強くなることは想定されます。近づいて安心を得たいからです。けれども近づくことは同時に恐怖の経験です。喜びはすぐに裏切られて失望と恐怖に突き落とされます。アタッチメントの問題を強く抱えるというのはそういうことです。

大人が役割を与えて、子どもがそれに従って、大人はそれを褒めて、子どもがそれを素直に受け取る、ということがそれほど簡単に生じるでしょうか、というのが大きな疑問です。自己肯定感を感じにくいことと同様に、自己有用感だって感じにくいかも知れません。というよりも、大人に「使われる」ということに傷つきや怒りを覚えることがあっても不思議ではありません。あるいは役に立たないのではないかという恐怖、役に立つことができないという無力さを味わうことだって想定されます。アタッチメントの問題を抱えているときには敵意や無力さが内在化されているからです。与えられた役割を放棄し、役割を与えられるということに反発し、その関係を攻撃し、破壊し、同時に傷つき、悲しんでいるということは十分に想定されます。「感情が未発達」であるということは、子どもなりの情動体験がないということではありません。子どもなりのなけなしの自尊心がないということでもありません。役割を与えて褒めれば、子どもが喜んでそれを受けとると思っているとしたら、それは子どもの尊厳を棄損しています。

別のところでは、子どもに気持ちを聞いてはいけない、感情が未発達なので気持ちは分からないし子どもは混乱する、だから大人が推測して言い当てる(そして主導権を握る)ということが書かれていますが、それも子どもを見下しすぎだと思います。

もう少し続けます。不適切な養育、あるいはアタッチメント関係における外傷的経験といっても良いですが、そうした経験をしてきた子どもは、未解決な恐怖の状態を内在化していると考えられます(アタッチメント研究者の間でこれは共有されると思います)。ここには、強い恐怖があり、同時に子どものアタッチメントのニードがあります。恐怖を経験させるような危機的状態も心の中に刻み込まれているでしょう(たとえば養育者に罵倒されるとか)。子どものニードや恐怖に対する養育者の応答も記憶されていると言えます(たとえば子どもが泣くと殴るとか)。子どもは無力さや敵意を内在化させることになります。これが心の中心にあると考えてみます。

それでも子どもはその養育者と生きていかなければなりません。そのために養育者とうまくやっていくための、防衛的な関係の方略を築きます。それがアタッチメントパターンとして記述される関係のパターンです。

しかしながら、不適切な養育のもとでは幼い子どもの関係の方略は崩れます。子どもの能力で養育者との関係を安定的に保つことは不可能であるからです。その結果、子どもは情緒的に混乱した、落ち着きを書いた、他者への不信感を顕にした、攻撃的で、不安に満ちた、あるいは抑うつ的で、救いのない言動を呈することになります。表に現れているのはこうした不適応状態だと考えることができます。

私は米澤氏が自己高揚と呼ぶのはこの3番目の水準の話なのだと思います。この水準においては、確かに子どもは(養育者を離れて学校などで)大人に指示的になったり、懲罰的になったり、あるいは服従的になったり、要求が大きくなったり、自己顕示的になったりするかもしれないし、それに応えること、褒めることが子どもの自己肯定感につながらないということはありえます。この水準にいくら応答しても意味がないし、この水準をいくら受容しても何にもならないし、この水準の動きを叱ったりしても子どもに変化は生じない、というのもその通りです。子どもは自分の内面が分からないかも知れません。それだけの能力を発達させる余地がなかったのです。

けれども、その奥には、子どもなりのニードが存在しています。どんなに悪態をついて、問題を孕み、憎らしい姿を見せ、あるいは周りの大人が手を焼くほどに不安が強く、無力でいっぱいの、無力感しか与えないような子どもであっても、アタッチメントの仕組みは動いていて、その問題を孕んだ不適応状態の中に安心を求めるニードが潜んでいます。それがアタッチメント研究者たちが知見の積み重ねの中で見出してきたことであり、その観点において子どもたちを、その発達を、守ろうとしているところなのだと言えます。その息遣いを見出せるかどうかが子どもを支援するということの敏感性であり、力量であるのだと思います。

その場限りの無責任な対応は確かに適切ではありません。でもそれは、大人が主導権を握って安心基地を形成する感情支援になっていないから、だから褒めることになっていないのではなくて、子どもにとって一貫性のない対応は別の機会に別の対応をすることで子どもに怒りや抑うつを誘発するからだし、子どもが何を必要としているかが見えていないということでもあるからだし、子どもへの誠実さを欠いているからです。

そのような視点からすると、子どもに応え、子どものしていることを褒めることが自己高揚にしかつながらない、という米澤氏の理解は、子どもの表層しか見ていないことになります。感情を聞いてはいけない、ということもそうです。正解を子どもが教えてくれること期待することはできません。けれども、感情を聞くことは大人が子どもを尊重しながら一緒に作業をしようとしていることを示す大事な態度です。混乱をするのであれば、混乱をするということを共有し、対策を練るのであって、大人が一方的に「分かる」ことは本質的に子どもの発達に寄与しません。アタッチメント研究の積み重ねを本当に学んだことがあるのだろうか、という疑問が再び浮かびます。

何よりここには「愛着」という視点を書きながら、子どもの経験してきた歴史への視点が決定的に欠けています。子どもは単に未発達なのではなく、発達することの土台をずっと崩されてきたのです。それは養育者の悪意によるものかも知れないし、不可抗力によるものかも知れないし、養育者自身がそのことに苦しんできたかも知れません。子どもにとって不適切な養育であることを強調することは、養育者が不適切な人間であることを主張するものではありません。そうだとしても、ここには発達することのできない子どもたちの苦しみや悲しみがあります。それを現場で扱うかどうかは方法論上の問題です。けれども、少なくともアタッチメントの視点を持つということは、そうした歴史の上に立って今の子どものこれまでとこれからをつなぐことであり、痛みや苦しみに手応えを与えるということを支援の中核とするものであるわけです。それは役割を与えて褒めれば喜ぶほどに単純なものではないわけです。

リアリティを欠いているというのはそういうことです。

ひとまず続けます。

……主導権を子どもに奪われてしまった支援は、まず、うまくいくことはありません。
→いかにして、先手を取るか、主導権を握って褒めるか、……。

心の中に階層(水準)を作るモデルは私の考えたものなので、必ずしもアタッチメント研究者が同意するわけではないでしょう。それでも、アタッチメントの視点に立つということは、子どものアタッチメントのニードに応えるということをとても大切なことだと考えるということを意味します。そこでは主導権は子どもにあります。これに手応えを与えます。そうして自己肯定感の育つ余地が生まれます。

子どもに主導権があるということは、子どもの言いなりということを意味しません。不適応状態の第3の水準で子どもが求めていることに応えるのではなく、そういうやり方でしか表現できないでいる、もともと達成したかった中心にある安心感のニードに応えること、そのための環境を設定することを意味しています。後者の点において、役割付与支援というものが役に立つことはありえます。けれどもそれは、子どものしたことを褒めると自己高揚にしかならないというような、子どものニードを否定した見方にもとづくものではなく、役割を与えること、それを遂行することが、子どもが本来表現したかったニードに叶うものだから、という見立てにもとづくものです。この見立てのもとでは役割付与のスキルは役に立つかも知れません。でも、この見立てなしの役割付与は、子どもを大人の枠にはめることであり、それは子どもの主導権を奪うことです。あるいは子どもの主体を奪うものです。

主体のないところに、安心も、喜びも、自己肯定感も生まれようがありません。

別のところでは、このようなことも言っています。

「先生、さっきのケガ、また痛くなった。包帯巻いて」といきなり言われた場合、「どこで怪我したの?」「どんな怪我だったの?」とこどもから情報収集しては主導権を完全にこどもに握られてしまい、何を言われても信じるしかなくなってしまいます。その要求に応えれば、じゃあ、「保健室に行きたい」など、要求がエスカレートします。「そろそろそう言いに来ると思ってたよ、やっぱり来たね」と少し汚い手ですが、どんな場合でも知らなくても使える対応をして、一旦、主導権を握ります。その上で、「この怪我はこうしよう」とその主張で主導権を取り返すか、違うことに誘ってその主導権を握ってから、怪我のことはこうしようと誘う方が良いかどうかを判断します。

(p.55)

「そろそろ言いに来ると思ってたよ」というような言い方は、子どもにとっては侮辱の言葉として響くということの想像がないのだろうか、と思うと、どのような子ども像を想定しているのだろう、ということが疑問になります。別に大人は聖人君子である必要はないし、清廉潔白である必要もないけれども、子どもの訴えに欺きを返すことは、子どもへの裏切りです。子どもから話を聞いたら何を言われても信じるしかないと言うのも、大人の能力を見下してはいないでしょうか。訴えが表層的なものであり、要求がエスカレートしそうなのであれば、その要求には応えられない、ということを、淡々と、理由とともに伝えることの方が王道です。それで子どもは納得できないかも知れないけれども、子どもが幼い間は、そうして限界や境界を作ることが大人の仕事であるし、表層的な訴えが隠している子どものニードに気付くことができれば、その境界が子どもの混乱や膨張を収める枠になります。子どもが大きくなっている時には、緊張を和らげるために相手の言うことに従って怪我の対応をすることもあって、それでもやはり隠されたニードを探そうとします。アタッチメントの視点において、大人が主導権を握るというのは、そのように応答することにおける主導権であり、それはあくまで応答なのです。

私たちは子どものニードについていって、これに手応えを与えます。このような関わり方を後ろからリードするといような表現する人たちもいます(誰でしたかね)。共構築co-constructionと呼ぶ人たちもいます(確か)。私たちの仕事は子どもの反応に対する主導権を握ることではなく、混乱した状態の中から子どものニードをより分け、その息遣いを聞くことであり、支援者の主導権とはそのように応答することの中にあります。

❹ 支援のポイント
ポジティブ感情が継続する支援、ネガティブ感情から切り離す支援を意識します。
自己有用感→自己効力感→自己肯定感の順に、定型発達とは逆順に褒めます。
後手支援ではなく、先手支援で主導権をこちらに確保して褒めます。

以下も同様に続いていきます。

確かにこの議論は、この書籍の中での理論と実践の一貫性を描いています。けれども、その一貫性は、アタッチメント研究が示すそれとは一致しません。その意味で、この一貫性は不適切なのです。

次に移ります。理解と対応の不一致の話ですが、ここまででだいぶ長くなりましたので、短く指摘をするのに留めます。

❶ 現象
説得・指示に従わず、こどもたちが徒党を組んで、教師に反抗し、くってかかる、モノを投げつけたり蹴りを入れたりする、そんなことを繰り返します。
❷ 原因と意味
(略)
大人への不信感と、かまって欲しい気持ちが、何重にもからまり合い混乱しながら、渦巻いているのです。こっちをみてほしい→聞いてくれない→もっとアピール→責められる→何で?腹が立つ、と連鎖して堂々巡りしながらからまっているのです。
しかも、そうした感情では、感じられない成就感、効力感を優位性への渇望、自己高揚で紛らわしてきましたから、教師の説諭に負けられないと、対抗心がエスカレートするばかりなのです。

(p.117)

これに対する対応が以下です。

「悪かったと反省しなさい」「わからない!」「言いなさい」「言えない!」の悪循環を繰り返すだけの反省を促す指示は、やればやるほどエスカレートします。
相手の気持ち、まわりの気持ちを考えてという指示はできないことを強要しているのですから、できるはずがない!と反発します。できないことばかり言う人だと教師との関係性が悪化する一方です。
(略)

そうですね。

→不適切行動が出てからではなく、出る前に「今、これしよう」「これしてていいよ」と先手支援をします。また、「この後、これをするからね」と予告して、そのとおりのことをして、「言ったとおりになる」予告+予定行動支援をします。これが積み上がっていくと、予期せぬ刺激にもどう反応すればいいか、「刺激希求」の特徴を緩和していけるようになります。

刺激希求の話をしていましたっけ。構って欲しいということに対して、何か構っているのでしょうか。そもそも論として、徒党を組んで反抗することを構って欲しいことと不信の混乱だけで説明して良いのかということはありますが(想定されている年代はいつなのでしょう)、それはさておき、主導権を握る、先手支援(支援?)をする、ということで一貫させたところで、何をしていることになるのでしょう、という疑問が浮かびます。激流にもまれる船の上でてるてる坊主を作るようなちぐはぐさではないですか。船漕ぎましょうよ、流れを見ましょうよ、と思います。

全体に子どもの示す問題に対して、想定される対応やその経過が「軽い」のです。これは何なのでしょう。

別のところでも、何でもモノを欲しがる子どもに対して、バットが欲しいなら野球をしよう、と逸らす支援を打ち出したりするのですが、そういう問題なのか、と思うことがしばしばあります。窃盗の執拗な嗜癖的欲求を分かっていないのだろうか、と不思議になります。

何なのでしょうね。

……そのようなことをずっと繰り返し書いてきて思ったのですが、この本の中に出てくる対応としての、主導権を握る、枠を作る、その中で安心基地を形成する、というモデルは、もしかすると、今何をしたら良いか分からない、ASD傾向のある、知的に境界域あたりの、情緒的に混乱している子どもを想定しているということはないのでしょうか。ASD+ADを特に取り上げているように、米澤氏の言う「こども」、あるいは「愛着障害」は、実のところ、構造化を必要としていて、それなしには混乱しやすい子どもの話なのではないでしょうか。当然ながらこうした子どもたちにもアタッチメントの問題は生じます。もともと持っている特性がアタッチメントの問題のように見えることもあります。けれども、苦しみや痛み、恐怖や敵意、無力さを想定しながら、実際的にはそれを扱うことなく済ませられると考えるその「軽さ」が示しているのは、こうした解決不能な恐怖を抱えた子どもたちではなく、環境調整が整わないことで混乱している子どもたちなのではないでしょうか。そうした子どもたちの混乱がここで書かれている対応で収まるのかは分かりませんけれども、そう考えると少しは納得ができる気がします。

それにしても子どもの個別性が棄損されている印象は否めませんが。主導権を握るとか、予期・予知を装う、とか、感情が未発達で気持ちを聞いても分からないし混乱するだとか、ここに見られる子どもの姿は、物の分かっていない子どもたちなのですよね。だから大人が何を感じて良いか(この表現は本文にある表現です)を教えるべき相手であって、一緒に考えたり、問題の解決に向けて一緒に取り組む相手ではないのですよね。ここには定型発達の子どもならできること、分かることが、できない、分からない「障害児」(とカッコをつけますが)が想定されているのではないかと、だから子どもの個別性は棄損されるし、主体としての子どもは尊重されないし、悩み、苦しみ、より良く生きたいと願う子どもの姿が見えないのではないか、と思えてもきます。困難を抱えた1人の子どもではなく、「愛着障害」というラベルでしか子どもが見えていないのではないかという疑念がぬぐえません。

この本にも良いところがあります。話が一貫していて、首肯するところ、対応のヒントになるところがあるところです。でも、理論的にはアタッチメント理論ではありません。ところによっては米澤氏自身の理解と対応が一致していません。それを見分けられるのであれば、役立つところを選んで自分の支援に役立たせられるでしょう。けれども、特に前者は多くの人に見分けがつかないことだと思います。そう考えると、何が適切で何が適切でないかの区別がつかないので、結局読まない方が良い、ということになってしまいます。そういう本だと思います。

最後に単純な疑問ですが、米澤氏の強調する主導権を握るということは、修復的愛着療法でも言われていることなのですよね。氏の愛着修復プログラムという名称といい、何か関連があるのでしょうかね。

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