アタッチメントと注意

少し前に研修で話したことを補足した文章を書きましたので、こちらにも転記します。3.はさらにその補足です。


通常、子どもは危機的状況になると、保護と安心を求めるアタッチメントシステムが動き始めます。この仕組みが動き始めると、危機的状況について、自分のニードについて、アタッチメント対象についての注意が向けられます。つまり、今起きている危機的状況がどのようなものか、自分がどんな感情を経験しているか、アタッチメント対象がどこにいて、今近づくことが出来るか、といったことです。例えば親に会えない時間が続くと、このまま親がいなくなるのではないかという不安が高まります。これが危機的状況とその時の感情で、ここに子どもは注意を向けます。さらに保護と安心を求めて職員にくっつこうとしたり、親に連絡をしたりしようとして、担当の職員がどこにいるか、いま近づけるか、親が応答してくれるか、といったことを確認したり知りたがったりします。これがアタッチメント対象に注意を向けている状態です。

アタッチメントの活性化という現象を注意という観点から、危機的状況と、自分の感情やニード、アタッチメント対象に注意を向けること、と言い換えることが出来ます。

ここで、養育者の敏感性が低い子どもたちは、養育者との関係を多少はましなものにするために、つまり何らかの保護や安心を獲得するために、防衛的な方略を発展させます。注意を向ける方向を養育者に合わせて調整し、何かを強調したり、何かを抑制したりすることになります。情緒的には養育者の敏感性が低いことに怒っています。

1.回避型

そのうち、養育者からの拒否をたくさん経験して、アタッチメントの活性化を抑えるように発達してきた子どもたち(回避型)は、こうした3要素(危機的状況、感情やニード、アタッチメント対象)から注意をそらします。それによってあたかも自分にはアタッチメントの活性化が起きていないというように振舞うことになります。つまり恐れや不安に鈍くなります。これが回避的な方略です。

こうした回避的な方略を持った子どものうち、ある子どもたちは注意をそらすことが徹底します。その結果、他者の危機的状況、感情やニード、アタッチメント対象への接近に対しても鈍感になります。いわゆる共感性の低い子どもになりますが、ここに怒りが加わると、他者の傷つきを弱さとしてなじったり、苦痛を責めたり、何もなくても見下した行動が出てくるかも知れません。

別の子どもたちは注意をそらすことが徹底せず、恐れや不安が刺激されています。自分のアタッチメントが活性化しながら、その3要素から注意をそらすと、注意は他者に向けられて、他者の危機的状況、感情やニード、アタッチメント対象への接近に対して過敏になります。けれどもやはりそれは共感的なものではなく、批判的、攻撃的なものになりやすくなります。こうして、自分の危機的状況が高まった時に外に注意を向けるパターンが生まれます。

こうした回避型の子どもたちは他者の弱さや傷つきに共感的でないだけではなく、知的であったり、合理的であったりもします。アタッチメントの3要素から注意をそらし、自分で問題を解決するためにそうした能力が発達するためです。そのため、一見正しいことを言っているように見えることもあります。けれども、その正しさは生き物としての自然な仕組みを抑えこんだ正しさであるため、どこか不自然です。口は達者でも内実がなかったりします。こうした子どもたちには、恐れや不安は悪いものではないこと、アタッチメント対象から拒否されたり批判されたり遠ざけられて寂しさや悲しさがあったのではないかということ、それは自然なことであることなどを伝え、本人ははっきりと望まなくても困っていそうな時には助けを提供し、それも自然なことであることを伝える、などのやり方で、抑え込まれたアタッチメントの活性化が自然になるよう方向づけていくと良いと思います。アタッチメントの活性化が起きるようになると、それが他者への共感性のもとにもなります。

2.アンビバレント型

他方、養育者の敏感性が低い子どものうち、養育者が子どものアタッチメント行動に応答はするものの、気乗りがしない様子であったり、受け身的であったり、怒りを覚えていたりすることを経験して、養育者の応答を引き出すためにアタッチメントの活性化を強めるように発達してきた子どもたち(アンビバレント型)は、3要素(危機的状況、感情やニード、アタッチメント対象)に注意を集中させます。自分がいかにアタッチメント対象を必要としているか、それにも関わらずいかにアタッチメント対象が共感的でないかを訴えることになります。これがアンビバレントな方略です。

こうしたアンビバレントな方略を持った子どものうち、ある子どもたちは注意を集中させることが徹底しません。その結果、養育者からの応答を引き出すための苦痛の表出や怒りの表出が中途半端となり、養育者の応答を待つことになります。受け身的な子どもとなりますが、養育者に怒りを向けるよりも、何も出来ない自分を感じて自信のない状態で過ごし、他者との関わりの中で自分を守ることが上手にできないかも知れません。

別の子どもたちは注意を集中させることを徹底し、危機的状況に対して敏感になり、恐れや不安、安心を求めるニードが高まりやすく、養育者がどこにいるか、近づくことが出来るか、応答してくれるかということをいつも気にかけて、養育者の動向に過敏になります。そこには怒りが混ざるため、養育者の応答が期待に沿ったものかどうかで気分が変わります。強気に見えますが自信はないため、恐れや不安に過敏で、それを訴える必要があり、こうして内に注意を向けるパターンが生まれます。

こうしたアンビバレント型の子どもたちはある面では他者の弱さや傷つきに共感的です。しかしそれは、自分の弱さや傷つきを重ねたものであるため、自分と相手との区別がつきにくくなるという問題もあります。例えば人を助けることに熱心になったり、自分が思ったように助けを受け取らないことに怒ったり、などです。感謝やお返しといった形で自分の苦労が報われることを求めていたりもします。自分のニードが満たされて安心できることが重要であるためで、こうした子どもたちには、自分と人が違うということを伝えるとともに、寂しさや傷つきがあった時でもちゃんと助けは得られること、つらい気持ちもちゃんと和らいでいくことを保障し、それと同時に実際に子どもが困っている時には耳を傾け、苦しさを和らげるための時間と手間をとることが必要になります。いつ対応できるかの見通しを伝えることも役に立つと思います。そうしたやり方で強められたアタッチメントの活性化が自然な程度になるよう方向づけていくと良いと思います。アタッチメントの活性化がほどほどになると、自他の境界もしっかりして、自信も出てくると思います。

3.理論的補足

アタッチメントの活性化と注意の関連を論じたのはMainです。

彼女が成人アタッチメント面接を発表した、1985年の有名な論文がありますが、その中で乳児期のアタッチメントが連続性を保ちながら幼児期、さらに成人期において変化し、行動の観察から表象水準での語りを用いる測定の変化に対応するために、アタッチメントの内的プロセスを注意という観点から捉え直したのです。アタッチメントのパターンを行動のパターンではなく、アタッチメントに関連した出来事(危機的事態)、自身の状態(情動やニード)、アタッチメント対象の利用可能性といったものに対する注意の制御のパターンで記述しなおした、ということです。

行動上、アタッチメント行動が見られず、養育者への接近を抑制し、回避しているように見える子どもたちは、アタッチメントに関する情報から注意をそらしている、と見なされます。特に、危機的状況、自身の情動やニードから注意をそらすことで、まるで何事もないかのように振舞います(けれども生理学的な不安の指標は高まっているし、行動上アタッチメント対象の所作をちらちら気にして、そこからもすぐに注意をそらしています)。逆にアタッチメント行動が強く現れ、養育者にくっついて離れない、それにもかかわらずぐずぐずと怒りを示すアンビバレントな子どもたちは、危機的状況、自身の情動やニード、とりわけアタッチメント対象の応答性や利用可能性にとらわれている、と見なされます。そのために環境の変化に過敏で、アタッチメント対象の所在をいつも気にかけます。

これが注意の組織化(方略)です。組織化という概念もMainが導入したものです(これは非組織化disorganizedという重要な含みを持っています)。

成人になると、幼少期のアタッチメントの経験に対する注意の制御としてこれが記述されます。軽視型では、アタッチメントの経験から注意をそらし、その結果幼少期のアタッチメント関係の語りが表層的になったり、抽象的になって具体性を欠いていたり、幼少期のやり取りを思い出そうという努力をしなかったりします。養育者を肯定的に捉えるにしても、否定的に捉えるにしても、それは何があってそのような感じ方になっているのかを聞き手が分かる程度に十分語ることなく結論を下し、フタをし、終わりにするといった印象を与えます。それらが、注意の回避を示している、と見なされるわけです。

とらわれ型では逆に、アタッチメントの経験から注意を話すことが出来ず、その結果幼少期のアタッチメント関係の語りが距離を置いて語れるものではなくなり、言語化することが困難になったり、情緒的な喚起が強まって、想起している経験の中に埋没している印象を与えます。特に、養育者の否定的な応答に注意が向い、怒りや不満な語りが続くことになります。軽視型が記憶に触れることを回避して結論だけを述べるのに対し(その結果聞き手は通り一遍の理解しか持てず理解に深まりがなかったり、あるいはむやみに踏み込んではいけない感じがしてしまう)、とらわれ型は記憶のフタが空いて同じ結論が繰り返されたりします(その結果聞き手は情緒的に負荷を感じ、どうやって話を終えようかとか、どうやってまとめようかという収め方に注力することになってしまう)。

もちろん、過去のことだけではなく、現在のアタッチメント関係においても、同じような注意の組織化の違いが見られます。

アタッチメントのパターンやアタッチメントの経験、アタッチメントシステムの活性化は情緒的な観点から語られることがありますが、発達心理学的な表象の理解はこのように注意の制御パターンとして描かれるもので、情緒の質(喜び、悲しみ、怒りなど)よりも、それが経験へのアクセスを伴っているか、情緒にどのような注意が向けられているか、という組織化の観点が重視されます。

こうした見方に慣れていくと、子どもや大人のアタッチメントの心的過程を見通すことがずいぶんやりやすくなります。研究上、行動水準から生理学的水準へ、あるいは表象水準へと統一的な視点を持って説明し、理解することができます。アタッチメントパターンが定理であるとすれば、注意の制御はそのメカニズムです。

メカニズムに比べればパターンなんて飾りです。偉い人にはそれが分からんのですよ(嘘です、偉い人は分かっています)。

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