20世紀の巨人、21世紀の小人たち

インターネットが人々の身近なものになったのは1995年のWindows 95の発売に端を発するのだと思いますが、そのころからずっと回線をつないで来た身としては、インターネットが知のあり方を大きく変えたなと思います。インターネットの黎明期からインターネットによる知の革新のような議論はあって、知識人によるネットワークの構想などもあったのですが、結局のところそれらはどれもあまりうまくいかなかったように思います。もっと世俗的なコミュニケーションや経済活動にインターネット資源の多くが費やされているのが今の状況だと思いますが、それでもインターネットによって変わっていった知のあり方があるようにと思います。

分かりやすく言えば、検索のことですが。検索は知の世界を変えましたよね。

身近なところで言えば、まだインターネットがそれほど普及していないころ、心理学の文献を探すには論文のタイトルが分野別にまとめてある分厚い冊子を開いて、1つ1つのタイトルを見て関連のありそうなものを拾い上げなければいけませんでした。その冊子の名前をもう忘れてしまったのですが、1990年代前半の話です。

私の個人的な経験で言えば、1995年か1996年ごろに、電子版のPsychLitが図書館に導入されました。キーワードを入れれば関連する文献のリストが一覧表示される、新しいシステムでした。多くの文献を拾うことができる一方、リストから論文を選ぶ作業に途方もない時間がかかるようにもなったのですが、その頃はまだ論文のタイトルだけで、概要を見ることもできませんでした。このシステムが導入されているのも図書館のコンピュータであったため、文献を探すためには毎回図書館に出かけていました。

PsychLitがPsychInfoに変わっていったのはそのすぐ後でしょうか。それから学内のネットワークであればデータベースにアクセスできるようなシステムが現れ、論文のタイトルだけではなく概要を見ることができるようになりました。そのうちにデータベースが強化されて、複数のデータベース間の串刺し検索ができるようになりました。いまではメタデータベースをまたぐ検索も可能になっています(この間大学の移動があるため、同じ機関での話ではありません)。

蓄積された知見へのアクセスが容易になりました。ここに至っては、この検索システムなしには行えない研究さえあります。メタ分析やシステマティック・レビューなどです。これらの論文では、どのデータベースで、どのような検索語を用いて検索を行ったか、といったことが再現可能性を確保するために書かれます。情報へのアクセスが、情報の蓄積と分析を可能にし、統合的な知見を提出することを可能にしたのです。もちろん、そのためのプロトコルや分析方法の創出も必要なことでしたが、それは増大する情報を扱えるようになって生じた発明でした。

より身近なところで言えば、Googleの登場は、インターネットの世界を変えましたね。それまでの検索は、ディレクトリ型と呼ばれるサービスが主流でした。ウェブサイトはカテゴリに分類されて登録され、そこをブラウズするか、そのサイトに登録された情報から検索が行われるのでした。しかし、Googleはこうした登録を必要としないという点で驚異的でした。検索システムが自らネット上の情報を収集し、蓄積し、そのデータの検索を通じて、人はインターネット上にある情報にたどり着くことができるようになったのです(Googleの革新性はこの仕組みそのものよりも検索のアルゴリズムにあったようですが)。そのため、逆に検索エンジンによるクロールを阻止するタグが使われるくらいです。

検索の革新によってたどり着くことのできる情報は飛躍的に増えました。それと同時に、こうした情報にうまくたどり着くための特別な能力が求められるようにもなった気がします。1つは検索語を考える能力であり、もう1つはサイトのリストから適切なものを推量する能力です。どのような言葉を検索語にするかが、検索結果を左右し、サイトの適否を判断する能力が、情報の片寄りを生み出します。もちろん、検索データベース内のアルゴリズムによっても検索結果は変わりますが、それはユーザーからはいじれません。ここでの公平性はある意味、インターネットの公平性の要ともなるため、検索アルゴリズムには今でも厳しい目が向けられていますが、ユーザーの立場からすると、検索語の設定と検索結果の取捨が情報へのアクセスを変えます。

研究におけるメタ分析や、システマティック・レビュー、あるいはナラティブ・レビューと同じように、情報へのアクセスは、知の構築の礎となるものです。ここから1つの知見を取り出す処理過程も重要なのですが、場合によっては誰かの知見にアクセスすれば、アクセスした情報そのものが自らの知を代替するかもしれません。

まだ、インターネットもコンピューティングも存在していなかった20世紀初頭、そしてまだそれが黎明期であった20世紀後半、情報へのアクセスは限られた人の特権でした。図書館が開設されること、遠方においては移動図書館があることは、こうした知の不平等を是正するための措置でした。情報があふれる今になって、図書館が商業化されていくのはある種の「平和ボケ」として理解できなくもない事態です(と同時に抗うべき事態です)。限られた人だけが情報にアクセスでき、限られた人だけがそれにもとづいて考えることができました。

その中に知の巨人とされる人々が出てきます。

情報へのアクセスが限られていた時代、手元に書籍があることは今よりはるかに重要なことだったと思います。どこかから情報を取り寄せるのではなく、手元において利用することが、知の創出の基盤であるのです。同様に、その情報を蓄積し、分析する装置も手元において置く必要がありました。つまり、考える能力を高めることです。どこかの誰かを参照するわけにはいきません。今のようにコンピュータによる分析が得られるわけでもありません。限られた情報で多くの事柄を見通す必要があります。知に関わろうとする人は、自らの内にこの知の装置を備えなければいけませんでした。そうして知の巨人と呼ばれる人々が現れます。

知の巨人はまた、社会にとって、あるいは世界にとって必要な存在であったでしょう。情報を放り込めば知見が取り出せる、そのようなブラックボックスを備えた希有な存在として、「その他」の人々にとって意味のある存在であったと思います(当人の苦労は別として)。知の巨人に触れることは、自らが知に近づく方法としてもてはやされた時代もあったのでしょう。なぜある時期にマルクスが読まれたかと言えば、その内容もさることながら、知の巨人性の取り入れという側面もあったのではないでしょうか。

今でもこうした考える能力を自らの内に備えておくことは求められます。けれども、その割合はずっと減ったように思います。情報は自らの内に蓄積しなくとも、検索によって手に入ることが増えました。分析は適切な符号化さえ行えれば、自動で処理された結果を手にすることができます。けれどもこれは、知の作業そのものではありません。考えることの作業にではなく、計算することの加工のために、工夫が施されるのであって、「知ること」「考えること」の多くは外在化されているように思います。

それが良いとか悪いとかいうことではなく、知のあり方は21世紀に入って変わったのだと思います。海外のことが知りたければ、英語さえできればおおよその情報は手に入るでしょう。もう少し時間が経てば、英語ができなくても情報が手に入るようになるではないかと思います。そうして英語の能力も外在化されています。人はもはや英単語を記憶することからも、文法を使いこなすことからも開放されました。現時点でも、海外の情報は限られた人のものではなくなっています。それだけではなくて、現地において何が起きているのか、それはなぜか、重大な問題であればどこかで誰かが何らかの意見を表明しています。その問題に詳しくなくとも、検索を通じて、その知見にアクセスすることができるでしょう。問われるのは、情報を取捨する能力ですが、それさえも検索結果の上位にあることで、情報発信者の身元を確認することで、ある程度担保できるかもしれません。

その意味で20世紀型の知の巨人は流行らなくなっているし、それほど求められなくなっているように思います。文系科目の軽視や文化・芸術への軽視をここに並べてみても良いかもしれません。実際のところは、それでも知識人は求められます。マスゴミなどと揶揄されるマスコミですが、その情報収集と分析、発信なしにどれくらいのことを、各個人が自ら為せるものでしょうか。アクセスした情報が信頼性のあるものであるとして、その信頼はどのようにして担保されているのでしょうか。そこには知的作業を行う誰かが存在していて、見えにくくはなっていても相変わらず知の巨人は生まれているし、必要とされてもいると思います。

卑近なところで言えば、情報番組のコメンテーターに、この20世紀型知の巨人フレームワークの残滓を見ることができるかもしれません。ある分野について良く知るコメンテーターが、別の問題については専門家ではないにもかかわらず、なぜコメンテーターとなっているのかと言えば、特定の分野にコメントできる人は、その能力で持って、得られた情報から一定の知見を取り出せるという期待があるからなのだと思います。それが決して正しい期待ではないということは良く知られている通りのことですが、同様にかつての知の巨人もそれほど巨人ではなかった可能性があったかもしれません。それを確かめようがないほど、情報にアクセスし、考える能力を持つことの格差は大きかったし、そうでないとしても、今でも希有なブラックボックス性を備えた巨人は存在しています。

けれども、今では誰もがある程度の情報に接し、ある程度の知見を得ることができるようになりました。21世紀は、小人たちの時代なのかもしれません。巨人の肩の上に立つ、という比喩と並行して(この比喩をめぐる、秀逸な図書館機能はこちらをご覧ください)、私たちは情報にアクセスし、それなりに自らの力で考えることができるようになりました。考える力を代替する外的装置が増えました。

同時に21世紀に暮らす私たちは、自らの内に知識を、記憶を、考える力を備えていく必要性が薄くなっています。内的な感覚と連想と発想と、そうした内的過程に依拠した考えることはエラーの多いものとして、あるいは「科学的」ではないものとして、退けられやすくなりました。このことは必然的に、内的世界の縮小と、外的世界への拡張を生み出すでしょう。もはや人は、個人という単体として物を考えることはできなくなりつつあります。ネットワークでつながった外部装置とともに知を生みだしていくことになるように思います。

こうした傾向は臨床心理学的支援において、個人の内面を志向する方法から、環境の設定を志向する方法への変化の中に見てとることもできます。セッションの中身を記憶し記録することから、録画と録音で記録することへと変化もしています。良くも悪くも、個人は単一の自我の水準において個人として存在しなくなりつつあるように思います。

Bollasはこの機制をoppressionと呼びました。twitterに吐き出された内心の吐露は、TLの流れの向こうに消えて、そのままどこかに行ってしまうかもしれません。Facebookが思い出のシェアを勧めてくるのを許容できるのは、シェアされるものしかそこに記録されていないからではないでしょうか(この機能がtwitterについていたらどうでしょう)。

膨大な知を司る巨人から、細かな知を重ねる小人たちへ、時代は移行しているように思います。この移行を促す世界の変化を反映して、心もまた外部へと開かれつつあります。環境の設定が、外部の装置が、心の機能を肩代わりしていった時、最後に残る「私」とは何なのでしょうか。私はどこまで「私」であるのでしょう。

誰かの書く原稿を待ちながら、そのようなことを考えていました(そしてまだ原稿は届いていません)。

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