屏風の虎と心理療法

精神分析の世界で一者心理学と二者心理学という言葉が出てきたことに示されるように、心理療法のプロセスを、場合によってはサリヴァンに代表されるような精神医学的問題の発生を、他者との内的、外的関係の枠組みで捉えることは、広く行き渡ってきているように思います。これを関係論的な立場と呼んでも良いのですが、それはそれである一つの立場を指す言葉であるので、この枠組みに当てはめられる言葉はそれほどないのですが、関係性というものが(そう言って良ければ)病理の発達にとっても、そこからの回復にとっても重要な基盤であることは、今では精神分析に限らず、多くの心理療法家に受け入れられています。

選択肢があまりないため、ひとまずこれを関係性のフレームワークと呼んでみることにします。

関係性のフレームワークは、より補助的な位置づけから、より中核的な位置づけまで、異なる水準で展開します。たとえば、治療同盟や治療関係のような、治療的作業が行われる器の形成において関係性のフレームワークが見いだされると、これは治療に対して補助的な位置にあるといえるでしょう。治療同盟や治療関係そのものが治癒をもたらすのではなく、治療的作業が治癒をもたらし、関係性はこれを円滑に、ないしはより効果的に勧めるための土台、あるいは触媒と考えられるからです。

他方、治療関係そのものが治療的作業のツールになるような場合、たとえば精神分析における転移のワークスルー、それに類する力動的な心理療法での作業、あるいは対人関係両方やスキーマ療法などでは、治療関係そのものが病理的(という言葉を使うかどうかはともかくとして)状態を反映し、治療関係そのものを使いながら回復への道のりを進んでいきます。この場合、関係性のフレームワークは直接に治療のツールを構成しているということができます。

関係性のフレームワークはおよそどの心理療法においても見落とすことのできない要素であるし、これは心理療法に限らずに、臨床的な介入、場合によっては福祉的な介入においてさえ、そうであるでしょう。誰がどのように支援を提供するのか、という、提供の仕方、その関係性が、支援の行く末に間接的に、あるいは直接に関与しています。

そのようにして、現代の治療や支援の現場には、関係性のフレームワークが行き渡っています。本質的にそうですし、遅かれ早かれこのことは誰にも気付かれていくでしょう。

他方、これとは別に、心理療法にゆっくりと進展している別のトレンドがあります。それは体験的なモーメントです(カタカナを多用するのは、日本語の文章の中で言葉を浮かび上がらせるためのラベルとするためで、スターンのプレゼントモーメントと関連があるかもしれないし、ないかもしれません)。

たとえば、精神分析における転移はその代表的なものです。病理の基盤となる個人の内部の、あるいはその個人が持ち越してきた関係性の、ある部分が、もしくはその全体が、治療関係の中に展開します。古い表現では、幼少期の親との関係が治療関係に移し替えられると言われますが、必ずしも親との関係に限った話ではないですし、移し替えられるというよりは治療関係なりの表現をとるため、転移が展開すると言った方が良いように思います(間主観性心理学の立場であれば、これを組織化原理に基づく間主観的な場での現象と言うかもしれません)。

あるいは、行動療法における暴露反応妨害法のように、不安な状況に個人を置いて、そこでその人がいつも取る不安低減ための(不適応的な)反応を抑制し、そうしたやり方なしでも不安の緩和が生じることを待つようなやり方も体験的なモーメントとして数えることのできるものです。力動的な心理療法はもちろんのこととして、DBT、スキーマ療法などの(認知)行動療法に由来する現代的な心理療法、あるいはゲシュタルト療法におけるエンプティ・チェアの使用もこうしたモーメントを持っています。マインドフルネス、森田療法、もしかすると内観療法における振り返りにも、問題の背後にあって普段は感じられることのないあれやこれやが新しく体験される一時があって、ここに治療作用があるといえるかもしれません。(そんなことないですよ、ということでしたら、すみません)

心理療法やカウンセリングは、しばしば「自分を理解する」という言葉で語られます。けれども、理解が変化につながるのは、理解を変化につなげる力のある人においてです。自分を理解することで、次にするべきことが分かる人にとっては(そういう人は次にするべきことをできる人でもあります)、理解が治療作用を持つでしょう。けれども、少なくない人にとって、理解は変化につながりません。理解は理解で終わります。「それはそうですけど、だからどうしたらいいですか」と問われたことのない心理療法家もそういないだろうと思います。

これを「本当の」理解に達していないということはできますが、それでは「本当」とは何でしょう。

時には、理解が変化につながりにくい人にも、変化が生じることが起こります。そうした状態は「腑に落ちる」といった表現で指し示すことができるかもしれません。理解が腑に落ちて、何となく収まりがつくことがあります。それ自体が小さな変化であり、その変化が生活上の小さな変化につながるかもしれません。

ここでの「腑」は内蔵を指しています。理解がお腹の辺りに落ちる感覚を指しています。同様の表現に「胸にストンと落ちる」というものもあります。理解とは上から下におりるもので、この感覚が理解の浅さ−深さと並行しています。変化につながらない理解は、「頭では分かる」です。

こうした表現が示唆するように、変化とは本質的に、体感的なものなのです。人にとって大事なことは、体感的なものなのです(風邪を引いた時に痛むのは頭ですが、恋をした時に痛むのは胸であるようなものです)。多くの人にとって、変化が生じるには、それが体感されなければなりません。理解が落ちないのであれば、変化そのものが体験される必要があります。

心理療法における「今、ここ」の重要性が、ここにあります。

心理療法に行き渡る関係性のフレームワークにとってもこれは同じで、このフレームワークが体験的なモーメントにおいて出現しなければなりません。これを指して関係が「生きられる」と言ってみることもできます。ある意味では、現代の心理療法とはこのことに向けて治療のプロセスを構成し、この中で治療的作業を行い、ここで生じる小さな変化を積み重ね、これが身に染みていくことの繰り返しだということができます。

理解を得ることはそれほど難しいことではありません。でも体験的なモーメントを創出すること、あるいはその出現を逃さないことは簡単な作業ではありません。というのは、そこには心理療法家も巻き込まれて、場を構成しているからです。

その意味で、理解とは、屏風に描かれた虎のようなものです。問題の来歴を聞き、ある程度の理論的な裏付けを持って、私たちは見立てを描き出すことができます。そのことはそれからの心理療法の助けになるでしょう。

けれども心理療法における変化とは、この虎を捕まえる作業です。屏風に描かれた虎を捕まえてほしいと頼まれたら、まずは屏風から虎を出さなければなりません。「さあどうぞ、虎を屏風から出してください」と心理療法家が頼むわけにはいきません。私たちは一休さんではないのです。心理療法はこの虎と対峙するプロセスを含みます。虎を治療の場に出現させること、出現した虎が危険でない程度に場を構成すること、屏風から出された虎の怯えを感じ取りながら攻撃に対峙すること、虎には虎なりの背景があることも分かること、虎がそのどう猛さを減じること、かつて程どう猛ではなくなった虎が屏風に戻っていくこと、そうした一連の作業が行われます(この比喩のもう一つ大事ではないかと思うところは、私たちは虎狩りをしないというところでもありますが、それはまた何かの時に)。

私が体験的なモーメントと呼ぶのは、そのような事象の生起する時間です。心理療法とは、そうした時間の生起する場です。このことに向けてプロセスを構成していきます。そのようなことを最近考えています。

関係性のフレームワークと体験的なモーメント。その2つのどちらがより重要かといえば、後者ではないのかなということが最近思うところです。

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