事件のアセスメント

最近、司法矯正関係での研修が続いたので、その中で触れたところから話題を拾ってみたいと思います。

こういう議論があるのかどうか分からないのですが、未成年者の非行にしろ、成人の犯罪にしろ、事件が起きます。事件が起きないことには非行も犯罪も話が始まらないので、それはそうですね(虞犯の場合に事件と呼ぶのは適切ではないでしょうが、ここでは事件という言葉でまとめてしまいます)。この「事件」は、精神疾患で言えば発症や再発になぞらえられるように思います。抱えてきた問題が、いよいよ現実の問題として表に現れてきたものと見なすことができ、その経過を調べることで何が解決を要する問題なのかの見通しがつくという意味で、臨床上、支援上、大事な契機に思えます。司法心理療法では、これを「指標犯行index offence」と呼んで重視します。

したがって、アセスメントにおいては、この事件がどのように起きてきたのか、ということを捉えることが必要になります。家庭裁判所の調査では、ここに生物−心理−社会的な要素を広く拾い上げること、事件のミクロ分析から生育歴までを含めたマクロ分析を行うこと、などが掲げられますが、でもこれの難しいところは、集められた情報をどのようにまとめるかが、結局はそれぞれの臨床家に任されてしまうところです。情報を集めるにあたっては何を、どのように、という方法があっても、それらをまとめて1つの人物像を作るにあたってはなぜ、どのように、という方法がないように見えます。

アタッチメントの観点はここに、アタッチメントのニードを置くわけです。厳密に定義されるアタッチメントのニードはくっついて安心するということですので、これの適応される事件の種類は多くありません。けれども、自己の安全を確保し、安心を得て、安定を図るというふうにその目標を広めにとり、そのためにくっつくだけではなく、それが困難であったために代替として身に付けてきたやり方までを含めるようにその方法を広めに取ると、これを中心に情報を集約していくことが可能です。事件の中心に自分を安定させるためのニードを置き、そのための他者との関係性があったりその他の行動があり、当然この裏には不安定な心の状態があり、そこには恐れや不安、葛藤、怒りなどがあって、それらは幼少期から少しずつ発展して今の状態に至っているのだという枠組みの中で、人物像を肉付けしていくことが可能です。

事件を動機づけているものを中心に理解を構成するということになりますし、前にも書きましたが、これは欲望として事件を理解する視点ではなく、ニードの観点から事件を理解する枠組みです。

ところで、実のところ、事件そのものは1つの危機的状況でもあります。発症そのものが結果であると同時に、発症したということそのものが外傷的な経験になりえます。とりわけ大きな事件を起こしたときには、その事件の重大さに圧倒されるということが起こります。

そのため、それまでに培ってきた危機的状況での身の処し方、つまりアタッチメントパターン(だけでもないのですが)、ないしはその崩れがここでも顔をのぞかせます。事件についてどう語るのか、どのような態度を取るのか、ということの中に、困難な状況に直面したときにその人物がどのようにその事実と向きあうのか、どのようにその事実に取り組むのか、といった姿勢を窺うことができます。ここには、こうした事件への反応を動機づけるような恐怖や敵意、無力さ、そして救いを求めるニードといったものも潜在しています。

つまり、事件というものを2段階のプロセスとして考えることができるのではないか、と思うのです。

第1段階は事件の発生です。何からの困難があって、人は苦悩を抱えます。これを解決するための方法として、反社会的な方やり方が選ばれます。そうして事件が発生します。

この力動を理解できると、どのようなときに再犯が生じるのか、どのようなときにリスクが高まるのか、そこで求められているニードは何か、このニードを表現するためのもっと良い方法があるだろうか、このニードに応答できる環境の設定とはどのようなものだろうか、そうしたニードの理解とそれに基づく方向転換ができるだけの能力、環境があるだろうか(なければ再犯の可能性が高いと評価して、それなりの手を打たなければならない)といったことを考えることになります。

第2段階は、事件への反応です。事件を起こしたことで、自分の抱えていた問題が社会の問題となります。周囲の他者からの反応が返ってきて、警察などの権威の反応もあるでしょう。自分の中でも悪いことをしたという感覚が潜在的に高まって、おびえが強まります(そうは見えなくとも、自分がしたことへの罪意識を潜在的にみんな抱いています、そう前提して理解を重ねた方が見通しがよくなります)。そのことへの反応が生じます。

第1段階は現実の生活における出来事の「結果」として事件が位置づけられています。けれども、第2段階は事件が「刺激」となってその後の反応を引き起こしています。

ここでの力動を理解できると、強い危機的状況に陥ったときにその人はどのように振る舞うのか、どのようにして自分の安全を確保し、自分を安定させ、それはどの程度社会的に許容される方法なのか、とりわけ権威との関係はどのようなものかを考えることができます。

それ以上に、事件を起こしたことが(もしかすると「事件が起きたことが」と表現する方が体験に近いかもしれません)どれほどびっくりして怖かったことかという水準で、本人に共感し、経験を共有することができます。事件が起きたことの外傷性を念頭においてアプローチすることが可能です。それは、その後の関わりの入り口となるでしょう。事件の第2段階、危機的状況としての事件の生起、という視点は、この点で臨床上の重要性を備えています。

事件のアセスメントをするときに、そのように異なる2つの「事件」の位置づけを意識しておくと、つまり事件が起きるプロセスの情報を扱っているのか、事件が起きた後の(潜在的に)外傷性のプロセスの情報を扱っているのかを区別しておくと、役に立つことがあるかもしれません。結局のところ同じ人物の内的プロセスの異なる状況での現れであるため、この両者は1つの人物像の中にまとめられていきますが、事件の前と後に質の異なる流れがあることを意識しておくと、アセスメントを立体的に行えるのではないでしょうか。

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