時には昔の話を

十年一昔というのであれば、もう昔の話になりますが、NPO法人を立ち上げたことがありました。この話はいろいろなところでしているので、ご存知の方はご存知でしょうが、当時私は刑務所の非常勤カウンセラーをしていて、目の前にいる受刑者の出所後を想像しながら、シャバに出ても回復の道は続くのだろうかと思っていました。入院生活の後に外来通院がないことに例えられるような制度の中で、外に出てからこそ支援が必要でないかと考えていました。その頃に、同僚のカウンセラーから更生保護施設で働いている人たちの集まりを紹介され、出所者の社会復帰を支援する団体を立ち上げたいと声をかけられて、活動に加わったのです。

ここから先はあまり話したことのないことですが、理事長は少年鑑別所の所長として退職した後、更生保護施設の所長をしていた心理職で、理事として集まった中で心理職は私ともう1人、あとは更生保護施設で指導員として働いていた資格は持たない経験者が2人と、会社の社長が2人、それに理事には加わらなかったものの団体の活動を支援してくれた地元に顔の利く人物が1人、といった構成でした。

団体を立ち上げた方は皆さん経験されるでしょうが、立ち上げに際してまず問題になるのが資金です。一時的なものであれば、ある程度のお金を出せましたが、団体としての活動を継続するにはまとまった収入が必要です。支援の対象が出所者であるということは、収入はほとんど期待できないことを意味します。どうにかして補助金を得る活動にしていく必要がありました。

記事の趣旨はここではないため、詳細は省きますが、NPO法人を経営するには年間2千万は必要だと、1年でそこまで行かなければ活動は続かない、と物の本に書いてあり、なるほどそうか、と思ったものです。結局、(確か)1年目は助成金を6百万円、2年目は1千万、3年目は2千万、得ることができ、ちょうどその頃始まった自立準備ホーム事業にのっかって、年間の収入は多い時は3千万、少し安定したところで2千5百万位に落ち着きました。その間、地域活動支援センターIII型の開設、生活困窮者自立支援制度による委託などもあっての数字です。

それでも宿所があり、食事を提供し、宿直が常駐する24時間営業の施設としては十分な額とはいえません。施設は理事の1人が4階建てのビルを買い、そのビルを丸ごと借りる契約をする形で作りました。先の見えない中で、補助金を得るためには宿所がなければいけないということで、家賃30万を支払う賭けに出たのです。私だったらそのような決断はしなかったと思いますが、それを主導したのが、2代目の理事長となる元更生保護施設指導員でした。

団体に関わるにあたって、私は自分で1つのルールを設定しました。それは、私が関わることのできる時間は1週間に1度だけであるため、施設の経営上の詳細には口を出さないというものでした。現場のことは現場に任せ、私が担当するのは助成金の申請書を書くことであるとか(十分にその役割を果たせたと思いますが)、アセスメントやカウンセリングといった心理的なサポートの体制を作ることであるとか、手伝ってくれる大学院生のマネジメントであるとか、理事会での運営方針について相談を受ける係であるとか、そういった裏方に近い仕事でした。

週に1度は宿直として夜勤をして、その次の日は1日そこで過ごしていたので、利用者との継続的な関わりもありました。彼らの心理的なサポートも任されていました。でもたとえば、誰がどこの部屋を使うとか、入所を受け付けるとか退所を決めるとか、通所利用を一時的に禁止するとか解除するとかいった、団体としての決定は現場に任せる立場を維持しました。気になることにはコメントをして、場合によっては職員の方針に難色を示し、利用者と職員の衝突があった時には仲立ちをしたりもしましたが、基本的には理事長の指示を受けて動いていました。

それが功を奏したのか、立ち上げから2年くらいはガタガタしていた施設内の生活が(施設のお金が盗まれるとか、警察にお越しいただいて場を収めていただくとか、元組員から「お前夜道歩いてる時は背中に気を付けろよ」と言われるとか)、3年目くらいからはだいぶ落ち着いてきました。

それまでに私は大学の相談室や精神科、スクールカウンセラー、それから刑務所などそれなりにいくつかの場所で経験を積んでいましたが、さすがにこうしてほとんど何の枠もない生活の場での臨床は初めてでした。しかもそこには何の強制力もありません。施設から外に散歩に出かけてどこかに行くことも、そのまま行方不明になることも(これがまた初期はよくありました)、何なら外で事件を起こすことも(これが本当に怖いことでした)、自由でした。施設の中にもこれといった守りはなく、薄いドア1枚で職員の仮眠スペースが確保されている時代もあり、利用者が暴力を振るえば向こうの方が圧倒的に強い環境で、取り立てて後ろ盾もないままに支援に臨んでいたのでした。そのうえ、問題が起きた時に団体を守る社会的な了解があるわけでもありません。幸い施設の設置について、最初町内会長は宗教団体かと思って警戒していたようなのですが、民間保護施設と分かって協力してくれるようになりました。幸運なことだったと思います(でも年末に餅つきをして持っていっても近所の人に受け取ってもらえないということもよくありました)。

そう考えると、刑務所の中で何度か「殺されちゃうかな」と思ったことはありましたが、周囲に屈強な刑務官がいるというのは守られた環境だなと思います(何かあった時のためのベルが机の引き出しに入っていて、働き始めて2年位して、実はそのベルが壊れて鳴らないということが発覚した時は、「ああ私の神様」とつぶやきかけましたけど)。

理事長はそうした守りのない中で決定を下し、利用者と対峙し、施設や団体を守ることに関して、絶妙なバランスをとる人だったと思います。躁状態の通所利用者が事務所のカウンターで長々と話し始めると、「うっせーな、早く帰れよ」と悪態をつくし、厳つい利用者が圧力をかけるように部屋を変えてくれとか金を貸してくれとか言って来ても、「ダメ」「ダメ」と言って追い払うだけだし、始めはそんな乱暴なと思っていたものの、だからといって利用者が荒れるわけではないし、それを慕ってくる関係もあって、この基盤の上に施設が管理されているというのが不思議なことでした。

何だこれは、と心理職なら思いますよね。よね?

考えられることは1つありました。宿所は男子専門であり、通所の利用者には女子もいたのですが、非行や犯罪の世界は比較的男社会として秩序が保たれているところがあります。分かりやすく言うと、刑務官は「おやじ」と呼ばれます(女性の刑務官は何と呼ばれるのでしょうね)。暴力団では「おやじ」とか「おじき」とか「あにき」とかが目上の男性をさす言葉で、目上の女性は「あねご」ですね。目下の男性は「舎弟」です。それは疑似家族でもあるし、父権的な階層の秩序です。

「おふくろ」が存在していないことには目を引かれますが、それは母親なのでしょう。母親との関係はこの父権的秩序の外側に、隠れて置かれているのだと思うと、非行・犯罪(というよりも犯罪ですね)の問題を抱えた人たちのアタッチメントの複層性に思いが至ります。

理事長の態度はこのような秩序の在り方に沿ったものだったと言えるのかもしれません。それは心理の常識も、およそ援助職の常識も超えた対応ではあったものの、それによって確かに安定がもたらされていることを考えると、そこに学ぶことがあるように思いました。父権的な世界からの脱却を目指すのではなく、ほど良い父権制への移行であったと思います(そのほど良さは、暴力は許さない、真面目に働く、といったことから成り立っていました)。私が週に1回の関わりの中で現場のことには口を出さないという態度を維持できたのも、このことへの一定の信頼があったからでした。

もちろんここからこぼれていく人たちがいます。私の仕事の1つは、利用者と理事長とのやり取りを見ながら、利用者の不満を抱いてくすぶりそうなところに手当てをして、理事長や職員に何が起きているかを伝え、必要であれば取りうる対応を助言し、特に発達障害や精神障害がある際の対応の仕方を教え(とりわけ発達障害は古くからの職員にとっては未知の領域であったと思います)、そのように利用者と理事長・職員をフォローすることでした。落ち穂拾いが私の仕事だと思っていたところがあります。

施設に立ち入り禁止と言われた利用者をこっそり施設に入れて話を聞いたり、悪態をついて出ていった元利用者が生活に困ってこっそり呼び出してきた時には備蓄している食料を渡したり、施設を出たあと組員になってなぜか私を勧誘しに来てそのまま床で寝てしまった若者を、そろそろ限界かなとしばらく休ませたり、そういった裏方の仕事をあいかわらず続けていました。

それでもうまくいかないこともあり、結局再収容されていった人たちもいました。どこかに飛んだ人たちもいます。

それが心理職と呼べる仕事だったのかは分かりません。でもこの仕事をしながら流れていたのは、確かに心理職の感触でした。

結局のところ、心理職の専門性とは、起きている事象を心理学的な文脈に位置づけることができるかどうかに関わってくるのではないでしょうか。

なぜあれほどの乱暴な態度を示す理事長が慕われるのか、同じように振る舞ってもおそらく別の人では同じことが起きないのはなぜなのか、利用者同士の間で、利用者と職員の間で、あるいは利用者と施設の間で起きていることはどういったことなのか、問題が起きそうなところはどこで、それはなぜなのか、職員同士の衝突はなぜ生じているのか、大学院生たちは何を経験しているのだろうか、利用者に大学院生はどう映り、大学院生の被るリスクをどう予測して対応すればいいだろうか、食事を作るボランティアと利用者の関係が利用者の生活にどのような影響を与え、食事の提供は利用者に何を与えているのか、そうしたことの1つ1つに垣間見られる心理的な作用を文脈として、物事を眺めていたように思います。その生活は全体として回復の道の上に置かれているのかそうでないのか、その判断も重要なことでした。

理事長はこうした判断にある点で長けていました。それだけの理由もあるのでしょう。けれども私にはそれを説明する能力がありました。それが理論であり、言葉でした。起きていることを説明し、起こりうることを予想し、求められる対応を考え、それを理事長や職員の経験的な対応と照らし合わせることができました。実際上、どちらかの意見が採用されたり、どちらかが相手から学んだりしながら、施設の運営は行なわれていました。私が間違っていることも少なくありませんでした。理事長が利用者に、彼は頭で考えてっから、と言っていたことも知っています(そういう悪態をつく人であったし、そういう悪態をつかれることもあまり嫌いではありません)。こっそり告げ口をしてくれた利用者には、「いや、まあ、その通りよねえ」と応じていました。

でも、この心理学的な作用を文脈化するところに私の専門性があったように思います。それは前面に出る必要のないものであったと思いますし、心はユビキタスに偏在するもので、したがって心理職の専門性もまた、そこここに発揮されるものなのでしょう。

唯一この能力が表立って必要とされるのが、社会的に団体の活動の意義を示す時でした。たとえば、フォーラムで話をしたり、助成金の申請書を書いたり、役所に請願に行ったりするような場面が相当します。でも、それ以外は目立たない地味な仕事をこなしていました。食事をして、雑談に混じって、消灯の管理をして、早朝に起きれない利用者を起こして、朝食を食べて、自分の皿を自分で洗わせて、出金の管理をしたり、通所にやって来る利用者を迎えたり、別の通所先での被害的な愚痴を聞いたりしていました。そのどれにも心理職としての専門性があったように思います。

これを純粋に取り出すことができる場所があるとすれば、それが心理療法なのかもしれません。というのは、それは心理的な作用の文脈を作り出し、それによって成り立ち、そのことに直接に介入をする設定であるからです。だからこそ、心理療法は心理職の基礎的なトレーニングとして位置づけられてきたのでしょう。

けれども、これには1つ、欠点がありました。そしてその欠点は重大なものでした。このことに気付かれるまでずいぶん長い時間がかかったように思います。それは、誰もが心理療法に乗るわけではないという単純な事実です。とてもシンプルな事実ですが、このことから長い間私たちは目を背けていたように思います。心理療法が心理的作用の文脈そのものの生まれる場であるとしても、誰もがこの文脈で助けられていくわけではないのです。壊れた窓を直してもらうことが生活を立て直す契機になることがありえます。フードバンクの食料が届くことで救われる命に心理学的介入が届くでしょうか。仕事を紹介することが希望である時に、絶望を共有する関わりの意味を問うてみることが必要かもしれません。これらのどれにも心理的な作用が含まれて、ここに流れる文脈を汲み取り、これに応じることは可能であるとしても、それでも表立って必要であるのは具体的な手立てであり、明日や今日の糧かもしれません。そのような支援の形態に長いこと目が向けられてきませんでした。

でも、最近は、ようやく伝統的なトレーニングのあり方からの脱却が図られているように思います。伝統的なトレーニングが悪いわけではないのですが、不十分であったのは事実です。それ以上に排他的な面もありました。それが今はもう、変わりつつあります。良いことですね。

時代は変わっています。新しい世代が生まれています。理解ができないなら、手を貸せないなら、どいてくれ。そういう時代になっているのでしょう。良いことですね。

十年一昔というのであれば、もう昔の話になりました。ずいぶん遠いことのような気がしますし、ついこの前のことのような気もします。そもそも最近は十年一昔とも言うのでしょうか。その表現だって今や忘れられたものであるかもしれません。本当に、十年一昔ですね。

今は昔。とっぴんぱらりのぷう。

これから10年が経った時、世界はどのようになっているのでしょうね。

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