旅する精神分析

精神分析をどのように説明するか、というのは、それなりに難しい課題です。教科書的には、教科書に書いてある通りに説明すればいいのでしょうが、それで精神分析を語れたかということになると、そうもいきません。でも精神分析はとても私的な経験なので、私的に語りだすと、今度は詩的すぎて共有できなくなってしまいます。Freudが言うように意識というものが語表象と結びついて形作られるのだとすると、まさにその形作る過程が精神分析であるために、言葉による記述はどれも言語以前の経験を正確に表わせないのでしょうね。

最近、精神分析は旅のようだな、と思いました。どんな心理療法も旅に例えることができるのかもしれませんが、精神分析はとりわけ、あてのない旅ですね。

あまり目的地が明確ではないのですよ。

旅に出る理由はある。でもどこに向かっているのかはよく分からない。たどり着く場所もよく分からないけど、旅に出る。1つだけ、何を辿れば良いかは分かっている。つまり、無意識の知らせるところである。

そのような感じで、道を探り、未知を辿り、ふらふらとあてもなくさまよって、結局のところ、始発駅に戻っている。そんな気がします。でも、戻ってきた時に、確かに何かが変わっているのですね。

精神分析とは、定義的に方法です。それは自由連想を主要な要素として持っています。Freudは精神分析を始めるにあたって、次のように自由連想を導入しています。

「あなたが列車に乗っていると思って、外に見えている景色を隣に座っている人に報告するように、心に浮かぶことを話してください。」

精神分析とは旅なのですね。旅に出て、いろいろなものを見聞きして、経験して、たまにはトラブルに巻き込まれ、その度に何かが変わっていく、そのような旅なのです。そして、ふらふらとさまよって戻ってきた時に手にしているものと言えば、旅をした記憶と記録くらいなのでしょう。チケット代わりの料金の領収書の束もあるかもしれません。

「納屋があって燃えています。誰かが火をつけたみたいです。」

「どんな納屋ですか?」

「細長くて、窓がたくさんついています。牛舎とかでしょうか。火をつけたのは男の人みたいですね、何か叫んでます。」

「細長くて、窓がたくさんですか。」

「ええ。」

「列車みたいですね。」

「ああ。」

「そういえば、あなた、昨日食堂車で何か怒っていましたね。」

「あれですか? ああ、あれはビフテキを注文したんですけど、メニューの写真と違っててですね。鉄板の上で焼いて食べれるのかと思ったら、鉄の皿にでき上がったのが乗ってきてて。揺れるから火は危ないって言うんですけど騙されてるんじゃないかと思って。ちょっとカッカしましたね。」

「熱くなった?」

「ですね。」

「……。」

「……え?」

「え?」

「あの火をつけてる男は私ですか?」

「そう思いますか?」

「いや、だって。」

「連想を辿るとそうなりますね。」

「ですね。」

「……。」

「……。」

「……。騙されてません?」

「え?」

「え?」

「騙されてますか?」

「いや、だって、私、さすがに火をつけたりしないですよ。」

「それは、実際にはつけないでしょうね。」

「カッカするってことですか?」

「しませんか?」

「いや、しますけど。でも、何か騙されてませんか。先生がそう言うからそう思えるんであって。」

「騙されてますか。」

「……。」

「……カッカしてます?」

「そりゃ少しは。何か騙されてる気がするんで。」

「……。」

「……え?」

「え?」

「そういうこと?」

「どういうことです?」

「え、いや、今みたいに、騙されたと思ってカッとなるってことですか?」

「そう思いますか?」

「まあ、そういうところはあるかもしれないですけど……。」

「騙された気がします?」

「まあ。」

「カッカしますか?」

「いや、さすがに(笑)。」

そんな感じです(たぶん違います)。車窓から見える景色は心に浮かぶ景色であり、そこに流れていくのは、ほかならぬ自分なのです。精神分析とはどこかに向かうことでもなければ、そのためのステップを踏むことでもなく、旅の折々に出会う出来事に自分を見出す作業なのです。無意識の知らせを聞くというのは、そのためのただ1つの手がかりなのです。

旅の終わりに手にしているものは、そうたいしたものではありません。スキルが身につくわけでも、自分の説明書ができるわけでもないのです。旅の仕方が上手になったかだって怪しいものです。

それにもかかわらず、旅の終わりは始まりと同じではありません。ほかならぬ自分が変化しているのです。変化をしてしまった世界線に、変化をしなかった自分は存在しません。それは喪失であり、時に気付かれない喪失です。

そうして得られる経験を、私は「自分に開かれる」と呼んでいます。

とりとめのない旅のさなかに、人は2つのことを通りすぎてきました。1つは、自分に開かれていくこと、もう1つは、その旅に同伴者がいること、です。自己へと開かれていくその過程に、分析者のたたずまいが織り込まれ、人はもう1つの世界線を生きていきます。

「テセウスの舟」というパラドクスがあります。

英雄テセウスの乗っていた舟が長い時間保存されていました。舟は時間とともに古くなり、人々は折りを見て古くなった部分を新しいものにとりかえます。長い時間が経って、もとの木材がすっかり取り換えられた時、それはテセウスの乗っていた舟だと言えるのでしょうか。

そのようなパラドクスです。

長い旅が終わって、始発駅に降り立った時、それはかつての自分と同じ自分なのでしょうか。遠くから、のどかな牛の鳴き声が聞こえます。どこからかの帰路につく人々を乗せた列車の発車のベルが鳴ります。

「さようなら。」

「さようなら。」

線路を揺らす列車の音が、広い空に消えていきます。カタンコトン、カタンコトン。

精神分析とは旅なのです、と例えてみることができるかもしれません。

2021.12.21 0:33

1つ書き忘れていたので追記します。

オンラインで精神分析はできるか、という問題。答えはもう出ていますが、私はできないと思っています。列車の中から眺める車窓と、テレビの画面に流れる「世界の車窓から」は同じではありませんね。旅番組を見たとしても、旅はしていないのです。

オンラインの心理療法やカウンセリングができないということではなく、オンラインの精神分析は成立しないと私は思っています。

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