アタッチメントの静的理解と動的理解

諸君らが愛してくれた twitter は死んだ。
何故だ!?

サービス名も社名も変わると告げられたその日に変更が実施され、twitterという名前がなくなりました。だからというわけではありませんが、情報発信の1つの経路として、思いつきを呟く1つの経路として、こちらのnoteをぼちぼち更新しようと思います。

久しぶりの話題は、最近頭をよぎるアタッチメントの理解の2種についてです。

このことは私としては何度か述べてきたつもりではあるのですが、あまり前面に出して書いたことがなかったので改めて書いてみたいと思います。

1980年代後半から2000年代にかけてアタッチメント研究と臨床領域が接近していった時、盛んに議論されたのはアタッチメントパターンの違いに基づいた個人の理解や介入の差異でした。議論の1つの方向性は、不安的なアタッチメントが安定したアタッチメントになるという臨床的介入の目標に関するものであったり、また別のものは不安定型アタッチメントの下位分類に応じた語り、情動制御、認知的表象、行動と関係のパターン、および適応上の問題と臨床的現れに関するものであったりしました。

アタッチメントパターンは変化するとはいえ、これは、ある個人がどのタイプにあたるかという点から個人を理解しようとする試みでした。

また、アタッチメントの視点を持つと、まずアタッチメントが成立しているのかどうか、どのようなアタッチメントが成立しているのか、といったことが議論にもなります。これもまた、アタッチメントがあるかないかといった点から問題を理解しようとする枠組みです。

こうした視点は、静的な(staticな)理解であるということができます。どのパターンに当てはまるか、アタッチメントがあるかないか、という問いはある時点での分類であって、そうした視点は分類に基づいて何かを言おうとするものです。

もちろんそれはそれで利点があります。アタッチメントパターンは情動制御、行動の選択、認知的処理、関係性についての一群の理解を表わすもので、ある種の定式的な理解をもたらしてくれます。たとえば、回避型の子どもは苦痛を示さない、共感性が低い、とか、とらわれ型の大人は依存性が高く情緒的な振れ幅が大きい、自分が大事にされているかどうかをいつも気にしている、とかです。そのため、臨床的には回避型の人に情緒的に接近すると不快感を生じさせる、とか、とらわれ型の人からはしがみつきを感じて距離を置きたくなり、それがまたとらわれ型の人の不安を増大させる、とかです。

でも、こうした視点を持ってみるとすぐに気付くことですが、このことは特定の個人にいつも当てはまるわけではありません。軽視型に見える人が人に気遣いを示したり、アンビバレント型に思える子どもが人からの否定的な言動に何も言わずににこにこ笑っているとかもあるわけです。

また、臨床的に問題となるような状態を静的な理解だけではうまく説明できません。たとえば、うつ病の患者さんがいたとして、アタッチメントパターンが軽視型であるので、人に助けを求めず自分で全部をやろうとして負荷がかかりうつになった、という理解があり得ます。そのため、「人に頼りましょう(secureな関係になるための行動を取っていきましょう)」というような方針を考えることができます。でもそれはとても粗い理解です。「う〜ん、人に頼るっていうのが大事なのは分かるんですけど、難しいですよね、いろいろ考えちゃって……」みたいな反応で進展がみられない、といったことが起こりえます。「友達に相談したことはあるんですけどね、あんまりうまくいかなくて、う〜ん……」みたいなうつむいた反応であるかもしれません。

静的なアタッチメントの理解は個人についての静的な理解しか生みません。全体像を描写するのであればそれも1つの資料になります。けれどもそれでは、生きた人間を描くことができません。

粗い理解の解像度を上げるのは、むしろ動的な(dynamicな)理解ではないか、というのがこの記事の趣旨になります。

動的な理解というのは、アタッチメントの内的過程と相互作用に基づく理解を指しています。ある分類ではなく、特定の状況においてどのような相互作用が起きているのか、そこでどのような内的処理が行われているのか、という過程の理解です。

たとえば、人に助けを求めずに自分で全部をやろうとするというのが、実際にどのような相互作用なのか、というようなことです。人に助けを求めた時に、相手から「自分でやらないと」「それは甘えだよ」「みんな大変なんだから」と言われてしまうことと、助けを求めた人が「役に立たない」「能力がなかった」「でもそういう人としか自分は関われない」ということと、助けを求めると「相手も一緒に困ってしまう」「相手も動揺してしまう」ということとでは、経験されていることが全く違います。頭ごなしに否定する対象であるのか力のない対象であるのか脆弱な対象であるのか、ということも違うし、怒りを経験するのか惨めさを経験するのか罪悪感を経験するのか、ということも違うし、自分で全部をやろうとすることの中に甘えようとした自分への(誤った)自己非難があるのか頼りにならない相手への怒りがあるのか人に害を与えないように毒を自分の中に飲み込むのか、ということも違います。

これらはすべて異なる力動であり、異なる相互作用です。動的理解とはそのようなものです。静的にはどれも、「あてにならない他者」ないしは「否定的な他者像」ということになり、「回避的なパターン」とみなされます。けれども、それでは不十分ではないでしょうか、という話です。

静的な理解とはある意味、この動的な過程のかなり抽象化された分類であるのだと言えるかもしれません。他者を理解し、臨床的に作用するためには、この動的な理解まで、つまり相互作用の水準までもう一度下りて、経験の中身を問うことに立ち戻る必要があるのだと言えます。それが私が思うところです。

とらわれ型に思える子どもが人から否定的なことを言われてニコニコしているのだとすると、それはその相手が主要なアタッチメント対象に近い位置にはいないこと、つまりアタッチメント対象と呼ぶほどに逃げ込み支えてもらう人物として認識されていないことを表わしているのだなということを考える、といったことも動的理解にあたります。もしも「とらわれ型」という理解が適切であるのだとすると、否定的なことを言うアタッチメント対象には怒りが生じる「はず」です。この場合、怒りは相手の行動を諌め、適切な応答を引き出すことを目標として生じている「はず」です。怒りが生じないということは、とらわれ型の子どもにとって、そのような関係に「ない」ということを示していることが推測されます。だからといって辛い思いをしていないとか、惨めな思いをしていないとか、何の怒りも湧いていないとかいうことではないでしょう。それを表現する関係にない相手だから表現しないのであって、この苦痛はアタッチメント対象の元に持ち込まれることになるでしょう。もしもアタッチメント対象から敏感な応答が返ってくれば、慰めが得られます。けれどもとらわれ型の子どもであるということは、アタッチメント対象からあれこれ批判されたり、アタッチメント対象の苦痛をぶつけられたりすることが生じやすいということも意味しています。そのために、慰めが得られることは期待しにくいかもしれません。そのようなことが考えられます。

とらわれ型という抽象化された静的な理解を、相互作用と内的過程という生きられた動的経験の水準まで戻して、今起きていることを理解する、というのが、私にとってのアタッチメントの視点です。

とはいえ、何の手がかりもなしに相互作用を捉えることはできません。ある程度の枠組みがあって、内的過程を推測し、想定することができます。それが、危機的状況では苦痛が生じ、保護と慰めを求めるニードが生まれるにも拘わらず、それは防衛的に歪められ、そうなってしまうのは応答的でない他者との関係に適応するためである、という枠組みです。この枠組みの中身を埋めていく作業が解像度を高め、この枠組みと照らして今起きていることを理解することができると思っています。

アタッチメントに基づく理解には、このような静的理解と動的理解があって、臨床的には動的理解が重要だと思います、という話でした。静的理解が不要であるとは思いません。でも、動的理解なしに静的理解は臨床的作用を持ちえません。静的理解は動的理解の手助けになりますが、動的理解だけでも個人を理解し、働き掛けることは可能です。アタッチメントの視点を使う時には、この動的理解が生まれるようになると良いなと思っています。

話はいったんここでおしまいです。

ここから先は蛇足です。

この動的理解はさらにhere and nowで展開されます、という話です。

たとえば、上に挙げたうつ病の患者さんの例に戻ると、「いろいろ考えちゃって……」という反応はすでに軽視的な過程の現れであると理解できます。「いろいろ」ではほとんど何も言っていません。実際のところ何を考えるのでしょうか。「いろいろ」という言葉で具体的な内容をぼかし、あるいは実際に考え感じているところから距離を取り、それを伝えることを回避しています。それが意識的に行われているかどうかということはたいした問題ではなく、そのような過程/処理 process が生じているということが注目されます。このような回避的な処理がなされるということは、その内容が心地よいものではないのでしょう、ということも考えられます。むしろそれを話すのが苦痛なことであるのでしょう。だから、回避されるのです。

ここに動的な過程が生じています。何かが考えられ、あるいは感じられています。だけどそれは患者さんにとって苦痛なものにちがいありません。だからあまり触れずに済ませようとします。その結果、曖昧な、漠然とした言葉でそのことは触れられます。臨床家には漠然とした印象しか残りません。もしかするとそのために、患者さんは何かを伝えたつもりである一方、臨床家の方は何も受け取っていないということが起こっているかもしれません。話したけどやっぱり何にもならなかった、という関係が反復されています。すでにここに問題のパターンが転移され、話しても解決しないという関係の表象が再度確証されることになります。

したがって、この回避を見過ごすわけにはいきません。「いろいろというのは……?」と尋ねることが必要になります。うつ病の患者さんの場合、その問いに答えることが、回避性のためというよりもうつ病のために難しいこともあります。その場合は、次の機会に委ねることになるでしょう。けれども、「いろいろ」の内容を考えられるようになると、問題の輪郭がはっきりしてきます。たとえば「話したところでどうなるのかな、とか……」と答えるかもしれません。「いろいろ」よりは考えていることの中身に近づいています。同時に、少なくとも会話のこの時点で、「話したところでどうなるのかな」と考えた時よりも時間的に先行したどこかで、「話したところでどうにもならない」という経験をしてきて、そのような経験が内在化されていることを想像することができます。どこかで「話したところでどうにもならない」という経験をしたので、「話したところでどうなるのかな」という考えが浮かぶのだと想定できます。

「話したところでどうなるのか」という考えそのものは、過去の経験の残滓です。「こんなふうに話してみてはどうでしょう」「あんなふうに相談してみてはどうでしょう」という提案をしても、過去の経験の残滓を書き換えるには至りません。それよりはむしろ、「そう思うということは、そう思うだけの経験があったのでしょうね」と一歩進めることの方が意味があります。それは過去の経験そのものに近づくからです。

そこにはイヤな記憶があるかもしれません。できれば近づきたくないものでしょう。近づくためにはこの苦痛に持ちこたえる必要があり、うつ病の患者さんに限らずここに一足飛びに近づくことはできません。けれども多かれ少なかれここに近づくことになるでしょう。そこにあるのは経験の残滓ではなく、生きた(生きられた)経験だからです。経験の残滓には変化の可能性が含まれていません。けれども生きられた経験にはくすぶったままのニードも生きています。たどりつきたいのはこの水準です。

過去に近づくことを好意的に捉えるにせよ、否定的に捉えるにせよ、誤解されやすいところがあります。それは、大事なのは「過去」ではない、ということです。意味があるのは「生きられた経験」です。例えそれが苦痛なものであっても、苦痛なこととして経験されたそのこと自体が意味のあるもので、これを活性化する道筋が過去に属する経験であるために過去に近づくことに意味があるだけです。

イヤな記憶がイヤな経験として思い起こされると、経験の全体が活性化されます(このことが意義深いのだと思います)。今ではあきらめだけを残すことになった経験に立ち戻ると、あきらめをもたらすに至った当時の失望や戸惑いやつらさが蘇ってくるかもしれません。同時に怒りが蘇るかもしれません。それ以上に、そこには「本当は話すことで理解をしてほしかった自分」がいるはずです。希望がなければ失望も存在しないからです。

もしもそのような自分が蘇ってくれば、私たちはニードに触れることができます。どのようにニードが損なわれてきたのかということを共有することもできます。同じようにニードが損なわれないように、今ならできることは何かを考える、という方向性で治療を進める可能性が生まれてきます。少なくともこの時点で、過去のあの時に何を経験したのかということを「話して伝わった」という経験が生じています(そのはずです)。過去は変えられないけれども、かつて生きられた経験に立ち戻れば、経験はその色合いを変えます。

ここから人生は、経験の残滓ではない、生きた経験を重ねることに動き始めます(そのはずです)。

動的理解を重ねることは、here and nowに展開しているプロセスに立ち入って、その潜り戸を抜けてかつて生きられた経験に、つまりくすぶったままでいる相互作用と内的過程の潜むところにまでたどりつき、それが行きたかった(はずの)方向に進展するのを助けることを含んでいます。今ここでやり取りをしているこの瞬間瞬間にアタッチメントが活性化しており、防衛的過程が展開しており、歪められたニードを拾い上げられる機会が訪れていると見なすことを含んでいます。

ここに変化の可能性が潜んでいるし、だから動的理解が欠かせないのです。そのようなことをアタッチメントの理解の2種として考えています。いつもの話ではありますが、静的理解と動的理解という言葉で表現をしてみた、というお話でした。

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