分離の影響

社会的養護においては、ショートステイ、一時保護、施設養護など、子どもが養育者との分離を伴う経験を持つことがしばしばです。そのことの長期的な影響について質問をいただきまして、これはアタッチメント理論の基本的な問題ですので、ここで回答したいと思います。

そもそもBowlbyがアタッチメント理論を作り上げていく必要性に駆られたのが、乳幼児期の分離と喪失の経験による影響の知見でした。アタッチメント理論とはある意味、分離と喪失の影響について考える理論であるということも出来ます(その中核が関係と安心感であるということなのですが)。

分離についての概論は、「ボウルヴィ母子関係入門」(星和書店)第3章、第5章を読むのが良いと思います。

1.分離の心理過程

まずは、分離の経過について。一般に分離の経験が長引くと、子どもは次のような過程を経るといわれています。

抗議:養育者の不在に怒りや悲嘆を表出し、他の大人や子どもからの慰めを拒否します
   この時期にはまだ養育者が戻ってくるという希望を抱いています
絶望:だんだんと養育者が戻ってこないことで抑うつ的になっていきます
   情緒的に不安定になり、情動が目的を失っていきます
脱アタッチメント:一定期間が過ぎると、養育者に無関心になる、養育者を忘れる、といったことが生じます
   怒りっぽさや情緒不安定さは残りますが、慰めを求めることがありません

各段階がどの程度の期間で生じるかは、子どもの発達度合によって異なりますし、また分離の前の養育者との経験によっても異なります。安心感の少ない関係であれば、それだけ混乱が大きくなり、周囲の助けを借りて状態が落ち着くということが少なくなります。分離の前に養育者や他の大人からこれから起きることについて、子どもが理解できるように説明があったかどうかによっても異なります。

ここでの支援者、あるいは周囲の大人が為すべき仕事は、子どもが怒りや悲しみの感情を表出できる環境を整えること、なぜ分離が生じているかを子どもが分かるように説明すること、なぜ養育者が帰ってこないのか子どもに聞かれることがあれば子どもの理解力を考慮しながら答えること、(可能であれば)今後の見通しを伝えること、などです。

泣かないように、我慢するように子どもに要求することは、子どもにとって過度の負担になります。気を紛らわせたり、気分転換を図ったり、楽しいことをして気持ちの切り替えを図ることは、役に立ちますが、それは本質的な苦悩に対してごまかしの意味合いしかないことも自覚しておく必要があります。無理やりに明るい雰囲気を作ろうとすれば、それは支援者の躁的な防衛だと言えます。折りに触れて子どもは苦痛を表出するし、その度に支援者も心を痛めながら慰めたり、話をしたり、絵本を読んだり、テレビを見たり、日常生活のことをこなしたり、運動をしたり、遊んだりすることになります。

2.分離の長期的影響

Bowlbyが子どもたちの行動問題(という言葉を使ってはいませんでしたが)を調査した時に見出したことの1つが、生後3年までの間に、養育者の「喪失」、長期の、または繰り返される養育者との「分離」がある子どもに盗みや暴力、不安やうつなどの問題が見られる、ということでした(これが3歳までは母親の養育が必要という議論の始まりで、現在では主要な養育者との関係が継続することと修正されています)。したがって、分離の長期的な影響として、乳幼児期の外向性の行動問題が生じることがあげられます。

実際に、養子縁組みや里親委託での研究では、(一時保護も含め)施設養護の期間が長く、繰り返されていると、それだけ家庭的養護に移った後の適応が悪いということが言われています。たとえば、アタッチメントの質が安定型である割合が低くなる、外向性の行動問題が生じやすくなる、などです。当然ここでは、施設養護に至ったもともとの過程での経験というものも考慮される必要がありますが、それとは別に、養育に責任を持つ少数の養育者を長期にわたり、あるいは繰り返し持たないということが、子どもの発達に影を落とすことになります。

ここから施設養護への批判的議論が生まれますが、これは注意が必要です。手短に述べますが、海外の議論は劣悪な施設環境をもとに行われていて、施設養護の現状を反映していないことがあります。また、養子縁組みや里親委託も生後2年を過ぎると問題が生じるリスクは高まっていきます。さらに、家庭的養護の場合には養親や里親の養育の質が子どもの精神健康にダイレクトに影響することになり、その実情を踏まえると単純に家庭的養護が望ましいとは言えません(議論は、この養育をサポートする社会的環境の問題になります)。分離の否定的影響があるのであれば家庭に留まるのが望ましいかというと、不適切な養育は子どもの発達の重大なリスク因子であることが分かっている以上、そうとも言えません。家庭復帰が促進されていますが、やはり議論は、戻すか戻さないかではなく、戻すか戻さないかをアセスメントし、その過程を支援する支援者の能力をどうやって高めるかということと、戻るにせよ戻らないにせよその後を誰がどのようにケアするかという社会的なサポートの問題となります。少しずつ時代は進んでいると思いたいです。

分離は1つのトラウマです。したがって、その影響はトラウマについて考えることと似ています。つまり、分離の後遺症としての自己や他者や世界に対しての不確かさ、情緒的不安定さ、危険な行動へのリスクの増大、および、分離のリマインダーに対する過敏さ、後の分離の経験に対する脆弱さ、といったものです。

たとえば、分離の経験は自分が愛されていない、という疑い(あるいは確信)を子どもにもたらすかも知れません。子どものその後の発達は、これを前提として、どうやって誰かに愛されて必要とされるか、どうやって見捨てられないかということに方向づけられて組織化されるかも知れません。あるいは他人はいつか離れていく、という予感に支配されて子どもは発達するかも知れません。親密さはいなくなる危険と隣り合わせになります。それなら初めから親しくならない方が良いかも知れません。あるいは親密さが増せばそれだけ怒りや不信が強まるかも知れません。世界が明日も同じ姿をしていると、どうして確信が持てるのでしょう。

分離の経験は幼い子どもに強い苦痛を与えます。不安、恐怖、孤独感、無力感、悲しみ、抑うつ、怒り、敵意、罪悪感、自責感といった情動です。このことがケアされることがなければ、また、分離の経験が長期にわたれば、子どもは強い感情の混乱の中に取り残されます。覚醒水準が亢進し、あるいは低減し、その調整がなされないままになることは、覚醒制御の能力を失わせる、という言い方をすることもできます。つまり興奮しやすくなったり、無気力になったりするということです。強い情動は、それ自体幼い子どもの手に余る事態です。そのために子どもは感情を調整する力を失い、その結果としてストレスに対する脆弱さを抱えることになります。後年になって、なぜか分からないけど涙が出てくる、といった時間を隔てた反応が出てくることもありえます。どのような情動的体験に脆弱さを抱えることになるかは、分離がどのように経験されたかによる、と想定することは可能です。それは子どもを理解する手がかりになります。

この苦しみから逃れるために、子どもは他者との関係から引きこもり、心を揺さぶられることのない世界に収まるか、あるいは落ち着かない苦痛を和らげるために過度に誰かにくっついたり、あるいは自分の苦しみを他者にぶつけるように意地の悪い、苦痛を与える関わりをするかも知れません。どうせいつかはいなくなるのであれば、今良い関係を築く必要もないわけです。場合によっては今ある苦痛から逃れるために、より強い苦痛に飛び込んでいくことがあります。高いところに上ったり、周りを見渡さずに駆け出したり、ケガをしやすくなったりします(こうした行動がアタッチメントの問題とADHDの区別を難しくしますが、アタッチメントには苦しみの影があり、ADHDは刺激への反応が中心だとひとまず整理することが出来ると思います)。強い痛みに自ら飛び込むことは、心の痛みを受け身的に被るよりも、自分を保っていられるものなのでしょう。

こうしたことが幼児期に見られると、その発達の在り方の上に後の発達が重なります。発達段階とは積み重なるもので、過去の経験はリセットされません。傷が癒え、苦しみが和らぎ、喜びや楽しみを享受することは可能になる、ということが発達することの肯定的な側面です。けれども経験の痕跡はゼロにはならない、ということがその影の側面です。分離の経験が生じた時に、必要なケアを受けること、傷の手当てがあることが後の発達の行き先を変えることにつながります。その意味で子どもの支援はいつも重要です。

3.分離の影響を考える時に考慮すること

分離の影響をつぶさに検討した研究を私は知りませんが(ないという意味ではなく、純粋に知らないのですが)、以下のような要素は分離による子どもへの影響を考える上で重要だといわれています。

遺棄

分離の経験が捨てられた経験として感じられることは、重大な傷つきとなります。たとえば親の離婚において、主要なアタッチメント対象(しばしば母親ですが)に引き取られなかった、もしくはどちらにも引き取られなかった、きょうだいの出産・出生に伴って親戚の家に預けられた、など、施設養護にとどまらず子どもが捨てられたと感じることはあるでしょう。

このことに子どもが怒りを覚える場合、それは健康さの証です。子どもは自分は悪くないと主張することが出来ています。しかし、多くの場合、また怒りを表出するような場合であってもたいていの場合、本質的に自分が捨てられた、いらない子どもだと感じている、と考えた方が良いと思います。怒りは、この苦しみを防衛するための空元気であるかも知れません。

そのために、支援においては、分離が捨てられたことを意味するわけではないことを伝えることが必要です。なぜ分離が生じたのか、そこにある大人の側の難しさ(問題)は何か、子どもが責任を感じないようなやり方で、そして子どもが理解できるやり方で説明をすることが必要です。時には養育者から「お前なんかいらない」「施設に入ってしまえ」といったことを言われてきた子どもたちがいます。そうした子どもたちにとって、遺棄は事実になってしまっています。これを取り除くことは困難ですが、子どもが他者の心を理解できるようになった時に、なぜ養育者そのようなことを口にしたのか、養育者に何があったのか、を伝えられることが重要であり、その発達段階まではとにかく「ここでは誰もあなたをいらないとは思っていない」と伝えることが必要です。それは言葉だけではなく、態度でも示す必要があります。その経験が、将来、養育者に何があったのかを理解し、自分を支える礎になります。

死の脅威

養育者がいなくなることは、養育者が死んでしまう怖さを子どもに引き起こすことがあります。たとえば、養育者が子どもの前で死のうとしたり、自殺を仄めかしたりするような時です。養育者の死は子どもの死に直結するということを、Bowlbyは進化論的、生物学的な事実として議論しました。そうでないとしても、養育者の物理的な死は、子どもの心理的な死をもたらしかねません。姿が見えない、ということが、子どもに強い不安をかき立てます。

同じようなことは、家の中で姿が見えない時、養育者が外出をして返ってこない時、養育者が部屋に閉じこもっている時、などにも経験されているかも知れません。もちろんそれは、養育者がそれ以前から死の脅しを子どもに示している場合、という特別な関係の中でのことです。そうであるとしても、子どもはこれに耐えられません。

支援者に求められることは、養育者の死を現実ではないと諭すことだけではなく、養育者が死んでしまうことがいかに子どもにとってつらいことか、そのような恐ろしい経験をした時に子どもがいかに一人であったか、その時にいかに助けが必要であったか、その怯えに手当てをすることです。それは過去のある時期の出来事ではありません。今も心の中で活性化している恐怖です。トラウマというものは、過去に起きた出来事が、心の中に埋め込まれ、今ここで恐怖として活性化する経験であると言えます。その緊迫感を支援者は共有し、それにもかかわらずゆとりを失うことなく子どもを抱える必要があるでしょう。

罪悪感

分離の経験を、子どもは自分に対する罰として経験するかも知れません。つらい経験があった時に、自分に悪いことがあった、養育者が自分に怒っている、と感じることはまれではありません。このことが捨てられたという考えや拒否されたという考えと結びつくと、自己否定感の強い源泉となります。このようなことは、分離の経験に留まらず、親の離婚、親の不和、親の死、虐待的養育、など子どもにとって堪え難い経験においても生じます。

自分のせいだと思うことは、子どもになぜこのようなつらいことが起きているのかの説明を与えます。それはある種の安堵です。自分のせいでないのなら、なぜこのようなことが起きているのか子どもは理解が出来ません。そのこと自体が大きな混乱を引き起こします。

支援においては、分離が子どものせいではないと伝えることが必要です。けれども、子どもによってはこの罪悪感や自責感を内面化して、これを強く信じていることがあります。罪悪感にしがみついている状態だといえます。自分を苦しめる考えにしがみついている時は、もっとつらい考えを防衛している時だと考えてみても良いでしょう。たとえば、どうしてそんなことが起きたのか分からない、という怖さです。あるいは、養育者が自分を愛していないからだという考えです。ただただ養育者に嫌われることに比べれば、自分が悪いから嫌われていると考える方がまだ救いがあるのです。罪悪感や自責感を和らげるには、養育者から嫌われているという強い恐れに取り組むことが求められます(養育者が実際に嫌っている時には、また養育者から実際に「お前が悪い」「生まなければ良かった」と言われている時には、この作業は極端に困難なものになります)。「あなたは悪くないよ」という言うだけではなく、「(自分が悪いという考えにしがみつく子どもに)そう思うのは本当につらいね、怖いね」と言った方が、子どもの心がほどける時もあったりします。

寄る辺なさ

身寄りがないということは、拠り所がないということでもあります。養育者との分離はそれ自体子どもに寂しさや孤独感、世界に独りぼっちであるという感覚を残すかも知れません。一人であるという感覚は怖いものです。Bowlbyはこれを進化論的な、生物学的な理由で説明をしました。孤立は捕食の可能性を高めるために恐れが高まる、というのです。寄る辺なさはこの心理学的表象だということになるでしょう。

それが適切な理解であるかはともかく、このことが強烈な恐れであればあるほど、子どもは誰かにしがみつこうとします。大人が一緒にいないと不安で指をくわえているかも知れません。離れようとすると大声で泣きわめくかも知れません。不機嫌になり、怒りを示して、攻撃的になるかも知れません。時々ぬいぐるみでベッドを埋める人もいますね。身体的に暖かく柔らかなものにくっついていることは、安心を得るための方法です(思春期に入ると性的逸脱のリスクが高まります)。

それと同時にささいな分離のサインに過敏になります。たとえば、目を合わせないこと、挨拶をしないこと、物理的に一緒にいないこと、大人が他の子どもに関心を向けること、誰かが分離の経験を話していること、誰かの分離の場面を目撃すること、施設職員が退勤すること、そこにいると思っていた人の姿が見えないこと、などなどです。これらは分離の経験というトラウマのリマインダーであるという言い方ができます。

支援において必要なのは、心細さは我慢できるものではないことを承認し、誰かにくっつきたくなることは自然なことであること、むしろそれは健康なことであることを伝えることです。誰にいつどこでどうやってくっつくことができるかという環境設定が、支援者の重要な仕事になります。たとえば添い寝の時間かも知れません。夕食後の団らんの時間かも知れません。安心感が蓄積していけば、子どもは大人から離れて活動することが可能になります。それが探索です。探索は(防衛的でなければ)適応の目安です。子どもなりの遊びや活動への没頭が見られるまでは、安心を必要としています。

もしもいつまでも離れることが出来ないでいるとすれば、取りうる対応は2つです。1つは、なかなか安心できないのはどうしてだろうと子どもと話をすることです。離れることを諭すよりも、安心ができないということを話題にする方が助けになります。もう1つは、くっつくことでもっと怖い何かを防衛していると考えることです。くっつくことが安心を得るための行動としてではなく、もっと怖い何かについて考えないようにするために行われています。たとえばそれは自分を置いていった養育者への激しい怒りかも知れません(激しい怒りは養育者を殺すかもしれないという怖さを子どもにもたらします)。あるいは誰も本当は自分のことを好きではないという恐れと怒りかも知れません。分離という現実を受け入れないための否認であるかも知れません。こうした強い恐れと子どもが格闘している場合には、子どもの心理療法を導入しても良いでしょう。

アンビバレンス

分離の前に養育者との関係がアンビバレントであった場合(アタッチメントのタイプとしてのアンビバレントではなく、愛情と同時に憎しみがあるという意味でのアンビバレンスです)、分離は強い恐怖をもたらします。養育者に捨てられたという思いが強まるかも知れません。養育者を傷つけて殺してしまったと言う恐怖が強まるかも知れません。自責感や罪悪感が強まることも考えられます。分離の前の最後の言葉が養育者に対する攻撃であった時、自分の敵意が現実化してしまったことに子どもは怯えるかも知れません。

施設養護の状況に限らず、離婚、きょうだいの出産のための入院や里帰り、親戚に預けられるといった分離の状況、あるいは養育者の死といった喪失の状況において、アンビバレンスは大きなリスク因子です。

どんなに養育者を憎んでいても、子どもたちのアンビバレンスの根っこには関係の修復を願う気持ちが隠れています。支援者の仕事はこの作業を手助けすることです。それは心理療法の形をとるかも知れません。心理療法は夢の中でこうした作業が行われていることを拾い上げる可能性があります(それだけの力が心理療法家には求められます)。手紙を書いたり、思いを綴ったりするような言葉の作業が心の中での関係の修復を可能にする知れません。修復には時間がかかります。かかる時間の間にどのような経験をしているかと言うことも、心の中の作業に作用します。日常生活で職員との葛藤が修復される経験が為されれば、それは心の中の養育者との関係の修復にも影響するでしょう。そこで重要なのは、関係の崩壊や傷つきと言う危機が乗り越えられることです。ここに支援者の力が問われます(形式的な謝罪や反省を促すことはスキルの獲得ではあっても関係の修復ではないのです)。

希望

脱アタッチメントという段階が想定されているとしても、子どもたちは多くの場合、とりわけ心の中に養育者の表象が確立されるようになった3歳以降は、どこかで養育者が戻ってくることを待っています(養育者の記憶が保持されます)。実際のところ養育者が迎えに来ることはないだろうということを支援者が感じている時、この現実と子どもたちの期待とは、支援者にとって堪え難いつらさをもたらします。それでも子どもたちの希望を奪うことはできません。子どもは希望を抱いているのに、支援者はそれに応えることも無視することもできないというのは、負担の大きな作業です。

だからといって、養育者が迎えに来ることを前提に話を進めるわけにもいきません。まして、養育者が戻ってくるように子どもたちに準備をさせたり、養育者と一緒に暮らせるという希望を持たせてこれをしつけの動機とすることは、子どもたちに対する欺きです。

養育者が戻ってこないという現実をどのように受け入れて、どのようにそれを処理するかは子どもたちの仕事です。それを代替することはできません。支援者にできることは、子どもが養育者を待っているということをそれとして大事にし、養育者からの連絡がないことを悲しんでいる時に子どもたちの側にいることの、果てしない繰り返しだと思います。どこにも何も答えはないけれども、誰かがその苦しみの間ずっと側にいたという経験が、過酷な現実と向き合う子どもの支えになります。そのようなわずかな希望しか支援者が持てないということはありますね。

希望は時に残酷です。子どもはありえない希望にしがみつき、いつか家に帰ることを空想しているかも知れません。そのような時、子どもは聞き分けが悪く、他の子どもに意地悪で、職員に対して反抗的であるかも知れません。「俺はもうすぐ家に帰るんだ」「春になったらお母さんが迎えに来るんだもんね」というようなことを子どもが言いながら、施設での生活をないがしろにしているということがあります。こうしたことは空想に限らず、養育者との接触が再開された時、養育者が(本音がどうであれ)引き取ると言い始めた時にも起こりえます。そこで子どもたちが施設での生活をかき乱すのは、実際のところ子どもたちの心がかき乱されていることの反転として理解ができます。現実は残酷で、子どもにとって意地悪で、子ども自身がずっとないがしろにされてきたのです。その怒りと恨みを、今では施設の中にばらまいているのだと考えてみることができます。破壊的な行動は止める必要があります。人を傷つけることは許容されません。けれども、それと同時に、それだけ子どもはつらかったのだろう(あるいは、つらいのだろう)という手当ても求められます。「現実は残酷だよね」という、もっと大人であれば共有できたかもしれない痛みを、幼い子どもと共有しなければならないというのは、とても残酷な現実です。

再会

分離と喪失の大きな違いは、分離には再会があることです。再会の見通しが立たない時、あいまいな喪失との距離は近くなっているかも知れません。けれども、施設養護の文脈では、分離はたいてい何らかの養育者との接触を伴います。電話や面会、試験外泊のような形をとって、再会の機会を持つことになります。

再会は喜びです。けれども分離の期間が長引いており、あるいは施設養護が続いており、または分離の前の経験が否定的であった時には、再会はまたアンビバレントな感情を引き起こします。喜びと同時に怒りを経験し、親しみと同時に阻害を経験するでしょう。それ自体子どもにとって混乱であったり、あるいは緊張であったりします。もしも養育者がこのことに気が付いて、子どもの困難を共有し、時間をかけて関係を修復する関わりが出来るのであれば、再開は希望のあるものになると言えます。けれどもしばしば子どもは再会場面で困難を示しません。養育者もまた子どもの困難を歓迎しません。子どもは施設職員とより慣れ親しんだ様子で関わるかも知れません。養育者がそれをなとも思わないかも知れないし、それを快く思わないこともあるでしょう。再会はどちらにとっても不安と怒りと緊張の時間です。

そのため、支援者は再会によく備える必要があります。たとえば、再会の前に子どもに再会の目的を話しておくことや、希望を高め過ぎないこと、子どもの不安や恐れについて聞いておくこと、怒りの反応が出るかも知れないことを支援者なりに予測しておくことなどです。また、養育者の子どもへの反応、特に子どもが入り口で固まったり、もじもじしていたり、逆にべたべたくっついていったり、はしゃぎすぎたり、別れ際にめそめそしたり、寂しさのかけらも見せなかったり、そうしたことを養育者がどう感じそうか、どのように反応しそうかを考えておくと、支援者自身が動揺することを防いでくれます。子どもも支援者も動揺し傷ついていると、子どものために働くことができなくなります。

再会の後にも動揺は残ります。思慕の念が高まっているかも知れません。興奮した状態になっているかも知れません。抑うつ的になっていたり、怒りが内向して自責的になっていたりすることも考えられます。ぐったり疲れているかも知れないし、夜になっても眠れないかも知れません。再会の時間が終わるということは、分離の時間を迎えるということでもあります。どの場合にも養育者に会えた喜びと、養育者から分離する悲しみとが混ざり合っていると考えて、喜びを共有しつつ、悲しみを悼む必要があります。こうした動揺に子ども自身が気付いていないこともあるので、目に付く子どもの行動に応答しながら、それが養育者にあったことの心の揺れから来るものであることを、子どもが分かるように伝えると良いのかも知れません。明日からまたいつもの生活が続くのです。

4.結び

分離の経験は何もなかったように済ませることのできないものです。それが長期にわたり、あるいは繰り返されるものであればあるほど、子どもの発達に影を落とします。施設養護とは、そのリスクを考慮した上でも尚、子どもと養育者を離すことが子どもの利益に適うと判断される時に行われる対応です。当然、このアセスメントを適切にできること、分離に対するケアが行われること、子どもだけではなく養育者の苦痛や怒りへの対応が為されること、などがセットとなった支援です。必然的に支援者は情緒的な苦痛を背負います。誰かの苦しみに直接に接することは、その傷つきが伝播することでもあるからです。誰が支援者を支えるのか、という課題が、つまり社会的なサポートのあり方が、ここでも問われます。

残念ながら私たちは、分離の経験を消し去ることができません。その影響から子どもたち自身を守ってあげることもできません。できることと言えば、このつらい経験を子どもが通り抜けていくための悲哀の仕事(モーニング・ワーク)をずっと手助けすることです。アタッチメント理論とは、畢竟、モーニング・ワークの心理学だと言うこともできます。喜びには喜びを、苦しみには慰めを。つらい経験をくぐり抜けていく時に、誰かが側にいるということは支えになります。目に付くような素晴らしい介入をする必要はなく、特別なプログラムを実施することも必要ではなく、日々を過ごし、悲しみを支え、楽しい時間を演出し、それでも見える陰りを否認しないでいることができれば、ひとまず支援者としての働きができるのではないでしょうか。

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