プレイセラピーの視点

去年だったか、アタッチメントと遊びについて書いたことがあります。

遊びとアタッチメント

最近プレイセラピーに接する機会が続いているので、遊びそのものというよりもプレイセラピーについて書いてみたいと思います。私自身はプレイセラピーをしないので、プレイセラピーに関する理論的な考察のようなものです。子どもの遊びを見る視点の1つとして、活かせるものがあればと思って書いています。

プレイセラピーに関して私が依拠するのは、やはり精神分析的な理解ですが、これについてクライン的な関わりをするのか、ウィニコット的な対応をするのかは、大きく立場の違うところだと思います。前者は解釈を中心としていて、後者はむしろ体験の深まりを主眼に置いています。私は両者を比較しながら、後者の視点に立っています。

そもそも精神分析的なプレイセラピーの基本的な前提として、プレイ(遊びと言った時の日常的な意味から切り離し、特定の設定における遊びを特定の視点で理解することまで含めてプレイと呼びたいと思います)は、内的世界で起きていることの表現である、というがあると思います。これを象徴と言ってしまうと、象徴機能の障害がある場合にプレイをどのように定義するかという隘路に入り込んでしまいそうです。ですので、象徴というよりも表現とした方が良いように思いますし、ある意味では表象(re-presentation)であるかもしれません。内的世界そのものが事自体の表象であることを考えると、三次表象とも呼べそうです。

この表現は内的世界そのままの複製ではなく、夢や自由連想のように表現の過程における歪曲や加工が施されたものと見なされます。そのため、この経過を逆にたどって内的世界を理解する手順が必要です。これがフロイトによる(自由連想への)解釈のそもそもの意味合いでした。しかし、治療の文脈において、この解釈には表現からその元となった内的世界への翻訳という意味以上に、治療的な作用があるわけではありません。クラインが解釈を使用するのは、これが不安を低減すると考えたからだ、ということが、クラインのプレイ技法の導入において読み取れます。解釈はある志向性を持って使用され、それは子どもが処理しきれない、それゆえ遊びの中にあふれ出ている不安を和らげる手法なのです。不安を引き起こす強い情動を伴った無意識の活動(破壊性や死の本能)を明らかにするのが解釈であり、他方、それに翻弄されることのないように(クライン派はそのような言い方をしないでしょうが)子どもの自我を支えています。

その解釈の中身は、いわゆるクライン派的なものになりますが、重要であるのはこうした解釈の定式化の内容ではなく、むしろその目標です。焦点は強過ぎる不安を低減し、自我の昇華能力を高めることにあります。

ウィニコットは異なる方法でこの目標に接近しました。ウィニコットのプレイセラピー、もしくはプレイの実際は、解釈をより控えるものだったと言えます。『子どもの治療相談面接』に顕著ですが、この中には理解はしているけど何もしなかったという記述がたびたび現れます。ウィニコットにとって解釈をすることは、それほど重要なことではありませんでした。むしろプレイの中で進展する体験が継続し、深化していくことが重要であったように思います。解釈はいくつかの局面で呈示されますが、1つはこの体験の進展が制止するところです。つまり、遊びが遊びとして機能しなくなっているところで、その障害物を除去するために、あるいは迂回路を見つけ出すために解釈が使われます。同様な方法として、夢を見たかどうかについて尋ねることも挙げられます。もう1つは体験の深まりに応じて意義深い素材が浮かび上がりそうになっているところで、その創出を手助けすることです。解釈によって道を均し、無意識からの報せが届きやすいようにします。

解釈の内容に関しては、ウィニコット自身の情緒発達の理論を基盤としながらも、その多くをクラインに依っています。そのため、ウィニコットの心の中の解釈だけをのぞき込めば(それをウィニコットはしばしば書いていますが)、クライン派的な理解がもたれています。しかし、実際に子どもに呈示される解釈、というよりもコメントは、「表現されたもの」に「ついて」ではなく、「表現すること」を「可能にすること」に向けられているように思います。これが創造性の発露を可能にし、クライン派の文脈で言えば昇華能力の発現となります。しかし、それは解釈の内容によって達成されるのではなく、コメントすることの行為によって行われます。このことが、コミュニケーションという主題で扱われています。

この視点に立つと、プレイセラピーについて、このように言うことができそうです。

プレイセラピーの1つの主眼は、子どもが十分に遊べることである。

その目印は、体験がリアルであることです。たとえば、子どもが何かをしているようでいて、実際のところ行為が上滑りしていることがあります。人形遊びをしたり、折り紙を折ったり、セラピストにボールを投げさせて子どもがバットでこれを打ったりしても、どこか身が入っていないと感じられることがあります。飽きたように次の遊びに切り替わります。遊びが短い時間に次へ次へと移っていく時もそうかもしれません。ウィニコット的な意味ではこれらの瞬間は遊びの瞬間とは言えないでしょう。一見遊びのようでいて、行動的には遊びと分類されるとしても、その体験はリアルなものではないのです。

ここでは何らかの制止が生じているということを想定できます。

あるいはバットでボールを打っている勢いが段々と強くなったり、初めはキャッチボールであったものが段々と一方的にボールを投げつけるものへと変わっていったりすることも、またはボードゲームをやっているのに次々に新しいルールが加わってもはや勝負にならないような時にも、これを遊びと呼ぶことは出来ないでしょう。そこではもっと別のことに心が奪われています。これを攻撃性や万能性やコントロールの欲求として解釈することは可能です。けれども、ここで注目されるべきだと私が思うのは、遊びが壊れていっているということです。

ここには何らかの破壊性が生まれているということを想定できます。それは破壊の欲求の表現ではなく、むしろ何かが破壊されたことの痕跡、もしくは再現として理解されるものです。

以前の記事でも書きましたが、アタッチメント研究では表象測定のツールとして遊びが使われます。代表的には人形遊びですが、繰り返し研究の中で示されていることは、子どものアタッチメントが非組織である時に、遊びは破局的な結末に至るということです。子どものアタッチメントが回避的である時は、その遊びは他者への意地の悪さや拒否的な色彩を帯びています。子どものアタッチメントがアンビバレントである時は、遊びの中で子どもは無力で状況を改善する術を持ちません。非組織なアタッチメントを有する時には、これらの傾向が顕著になっていきます。

子どものアタッチメントを非組織なものにする養育には、いくつかの外傷的な経験が含まれます。養育者が子どもを怯えさせるような関わりをとること、むしろ養育者が子どもに怯えたような姿を見せること、養育者自身が親の喪失などの外傷的経験から立ち直ることが出来ていないこと、両親の不和などの子どもにとって著しく苦痛な養育環境が存在していること、養育者に物質使用などの行動問題が存在していること、いわゆる不適切な養育と呼ばれる関わりが観察されること、などです。遊びが不毛なものとなるのは、無力さが支配的になるからです。それは子どもに遊ぶ創造性がないのではなく、創造性を促進する手応えが欠けているからです。遊びの中で大人の手応えが欠けている、ということが問題なのではなく、手応えの欠けた相互作用が内在化されてきたことの現れです。遊びが破壊的になるのは、子どもが破壊的だからではなく、その養育の経験が破壊的であったからです。子どもの破壊性はその痕跡であり、その再現なのだということができます。仮に子どもの攻撃性が生まれつき高いとしても(それはありうることだと思います)、幼い子どもの示す幼い攻撃性によって養育者がケアの質を保てなくなることの問題が(それが養育者の育ちまでを視野に入れると、養育者の責任ではないとしても)、子どもの苦痛な経験として内在化されてきたのだと考えることが出来ます。

子どもの内的世界はそれを抱える環境によって形を成すのです。

したがって、遊びが遊びとして成立しないことという主題について考えることが出来ます。これが介入を必要とする瞬間です。ここで、遊べない何かが心の中で起きているのだと言えます。

逆に言えば、遊びが成立している時には、その体験の進展を見守ることになるでしょう。それは文字通り見守るということではなく、遊びの相手役をして、子どものリードについていき、浮かび上がる素材の通り道を確保する行為を含むものです。これがセラピストの役割だと言えます。

この時の遊びは、生き生きとしたものですが、注意が必要であるのはそれが、必ずしも一般的な意味で楽しく、興味深く、創造的であるとは限らないことです。むしろその遊びは苦痛で、破壊的で、悲嘆に暮れて、あるいは意地悪なものかも知れません。そうであるとしても、そのようなものとしてリアルな体験である時に、これを遊びと呼ぶことができるのだと思います。たとえば、箱庭の中で意地悪な物語が展開するとして、それが箱庭に収まって子どもが意地悪な物語を進行させている時に、これは遊びとして成立していると見なすことができます。この時に意地の悪さは解釈を要する喫緊の課題ではありません。そこには攻撃性や不安や不快の逆転が含まれているけれども、これは自我によって取り扱われる程度のものであり、その体験が十分に進展することで心の養分となると考えられます。他方、もしも子どもが自分で展開させた意地悪な筋書きに、次にどうしていいか力なく笑う時、あるいは意地悪さが箱庭からあふれてセラピストが対応に追われる時、遊びは壊れつつあると言えます。

プレイにおいて遊びが成立している時、遊びの中身に応じて介入が可能です。遊びが成立していない時には、強過ぎる苦痛から子どもを掬い出すことが介入の主眼になります。そうして遊びが遊びとして成立するよう手助けすることがプレイセラピーにおけるセラピストの役割となるでしょう、というのが私が思うところです。

それはある方向性を持っています。子どもが遊びを遊べるようになることです。遊びが表現として理解されることではなく、遊びが遊びとして遊ばれること、それがプレイセラピーの意義であり、このことに向けて介入は方向づけられるのではないかなと思っています。

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