遊びとアタッチメント

(この記事はnoteの転記です。タイムスタンプは2020/06/21 22:52です。)

しばらく前にいただいたお題なのですが、あまりnoteを書く気持ちになれず、手を付けられずにいました。そろそろ書いてみたいと思います。

少し前にアタッチメントセミナーの練習として、zoomウェビナーに何人かの方にお付き合いいただいたことがあります。その時にストレスケアとアタッチメントという話をしたのですが、その中で、子どものケアについて、「話をすること」を取り上げました。それについて、ケアには言語的な関わりだけではなく、遊びも含めることはできないだろうか、という質問をいただいていました。プレイセラピーとしての遊びというよりも、日常生活での遊びであり、主眼としては「遊びの機会を確保する(もしくは奪わない)」ということが子どものケアの1つになるのではないか、というご意見だったと理解しています。

結論から言うと、そうだと思います。

ただ、アタッチメントの話としてこれを論じると、少しだけ整理が必要だなと思うところがあって保留にしていました。それからプレイセラピーとアタッチメントの関係についても思うところがあって、一緒にまとめられるだろうかとも思っていました(実際にはちょっとまとめられそうもないので、こちらについては以前として保留です)。

整理が必要な点というのは、アタッチメントにおける遊びの位置です。話すことが苦悩を表現するだけではなく、人の活動として多様な側面を持っているのと同じように、遊ぶことも楽しいだけではない、多様な側面を持っています。アタッチメント研究の文脈で遊びを中心的に取り上げている人が誰かいるのかは分かりませんが(ご存知の方がいらっしゃれば教えてください)、遊びは少なくとも2つの意味を持って登場します。

1つは、探索行動としての遊びです。もともと探索行動とは、その名の通り外界の探索を行なう行動を指していますが、遊びに探索が含まれるかどうかは状況によります。たとえば、外遊びのような形で外界を探索することもあれば、1人遊びのように通常の意味での探索を伴わないこともあります。後者の場合に、これを探索行動と呼ぶことができるかどうか、不透明なところがあります。けれども、どの場合にも養育者への近接を図るアタッチメント行動とは逆方向の、落ち着いた状態で行われる活動であるために、アタッチメント理論の文脈ではこれを探索行動と捉えることがあります。

たとえば、乳児のストレンジ・シチュエーション法における遊び、あるいは幼児の課題解決場面に用いられる遊びは、探索行動と考えられます。

もちろん、遊びの最中にも養育者との相互作用もあって、それは一緒に遊ぶことであったり、養育者を振り返って安全を確認し安心を得るアタッチメント行動の相互作用であったりしますが、それでも遊びそのものはアタッチメント行動ではなく、探索行動にカテゴライズされています。

もう1つは、内的世界を表現する手段としての遊びです。プレイセラピーと同様の、基本的な想定を有する捉え方だと言えますが、代表的にはdoll playと呼ばれるアセスメント法に見られます。doll playでは、人形を使って、実験者が親子の分離の場面を演じます。途中で子どもに代わって、子どもに話の続きを作ってもらいます。その話を分析することで、アタッチメントパターンを分類する手法ですが、記憶が定着し、言葉で物語を作れるだけの認知的な発達を遂げた幼児期以降に使われています。

行動水準で捉えられていたアタッチメントパターンが、認知水準で捉えられるようになるところで活用される方法の1つなのですが、この場合、遊びは遊ぶことそのものとしてよりも心の状態を表現するものとして注目されています。このような遊びの要素を行動システム上、どのようにカテゴライズしたらいいのか、私には判断がつきません。遊び行動システムというものを独立に想定してみてもいいのかもしれませんが、これを1つの行動システムに帰属させることができるのかどうかはかなり検討が必要そうです。

いずれにしても、内的世界の表現としての遊びが挙げられます。

アタッチメント研究で扱われる遊びは、大きくその2つになるのではないかと思います。

質問でいただいた意味での遊びというのは、この2つが重なりあったもののようでありながら、もう少し違う機能も含んでいるように思います。つまり、経験を反復し、消化し、同化する過程が含まれているように思えるのです。

探索としての遊びを保障するということは、もちろん「そこから探索に出かける」安心の基地としての養育者の機能として重要なものです。ただ、この安心の基地には探索を支える要素はあっても、苦悩を和らげるという意味での安心感のケアはありません。内的世界の表現としての遊びである場合には、そこに内在化された相互作用が表われるために、ケアを提供できる機会と捉えることができます。ただ、その場合には遊びを妨げないだけでは十分ではありません。

遊びを保障することそのものがケアとなるという発想には、遊びの中で子どもが自ら経験を反復し、それを消化し、自分のものとする、もしくは忘れていくといった、経験の自己調整の要素が含まれているように思うのです。もしも、遊びにそうした要素があるとすると(実際にそれはあると思いますが)、これについてアタッチメント研究が言えることはあまりありません。というのは、アタッチメントとは養育者との相互作用に基づくものであるからで、自己の内部で起きていることは直接の議論の対象とはならないからです。とはいえ、自己調整の議論そのものはアタッチメント関係と関連する発達の一側面として議論はされています。そこで言われることは、安心感あるアタッチメントの内在化が自己調整のリソースとなる、もしくはその基盤を整える、というものです。したがって、同じことを経験の自己調整としての遊びについても言うことはできるのだとは思います。

遊びの中で自己調整が可能になるだけの発達を遂げてきたこと、そのような発達を可能にするだけの何らかの安心感ある関係性が存在していたこと、を考えることができるのでしょう。

子どものケアとしての遊びについて考えるには、その指し示すところを混同して、議論が煩雑にならないように、こうした点を整理した方がいいだろうと思っていました。理屈っぽい話なのですが。

さて、この自己調整としての遊びを保障することがケアとなるか、と考えれば、私の答えはyesです。自己調整の努力の表われ(シグナル)をそれとして認め、その意味を理解し、これに見守るという形で応答する、敏感性として定位できそうに思います。一緒に遊ぶこともケアとなるでしょう。

しかしながら、ここには但し書きが必要で、1つは、遊びを保障することは能動的な受動性であり、通常アタッチメントの文脈でケアという時の能動性とは異なる態度であるということです。その点は区別して考えておいた方がいいのだろう思っています。もう1つは、見守ることにせよ一緒に遊ぶことにせよ、この敏感性が発揮されるためには、探索、表現、自己調整といった互いに重なり合う異なった遊びの機能を理解する、また別の能力が必要とされる点です。アタッチメントの話が、本来的には養育者に向けられる、しかし発達に伴って自己調整する、あるいは本来的な形態から逸脱している、恐れを和らげるニードにもとづく行動に対する敏感性の話をしているのに対し、遊びによるケアは、どの遊びが自己調整の遊びとして保障される遊びかを識別する遊びの理解力を必要とするもののように思います。

後者についてもう少し言うと、行動を理解する力と遊びを理解する力は異なる能力のように思えるのです。あまりまとまった考察をできていませんが、行動は現実を生きているのに対し、遊びは空想を生きているようで、Winnicottを引いてこれを中間領域の生活と呼ぶこともできるかもしれません。これを理解する能力は、現実とかかわる行動を理解する能力とは異なる要素を必要とするように思えます。シグナルを識別し、その意味を理解し、これに応答するという点では同じなのだろうと思いますが、この「中間領域性(あるいは遊びの遊び性)」がアタッチメントの文脈とは別次元にあるな、という感じがするのです。遊びを行動としてだけ捉えれば、そうした齟齬は感じないとは思うのですが。

遊びとは何か、ということを問い始めると、深遠に足を踏み入れそうで、そこまでの力量はありませんが、ケアとしての遊び(の保障)は考えても良さそうです。

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