男の子たちの性被害

昔から漠然と感じていたことで、最近になってやっぱりそうなのかな、と思うようになったことなのですが、男の子と女の子には性の露出という点で大きな違いがありますよね。大人になった男性と女性でも差がありますが、幼少期から男の子と女の子は性的な事柄に対して異なる態度を発展させるし、大人の側もこれについて異なる扱いをしています。一般的な傾向としてですが。

これについて、女の子の方が性についての社会的、構造的な「抑圧がある」、という形で議論されることは多いと思います。性的な被害を回避するためにプライベートゾーンや嫌といえることの重要性が性教育としてうたわれたりもしていて、こうしたことも女の子の性被害に比重が置かれているように思います。

被害の現状をながめるにそれ自体が間違ったことではないと思うのですが、逆に言うと男の子たちは性の露出にさらされているのですよね。これを社会的、構造的に「強要されている」、とは言えないにしても、露出しないこと、晒さないことに対して「保護されていない」という言い方はできるかなと思います。

一番分かりやすくは、性器の呼び方があります。男性器については「おちんちん」という言葉があてられ、それほど性的な意味合いを含まずに日常の育児の中で使われています(と思うのですが、データはあるのでしょうか)。一方、女性器については日常の育児の中でも呼びやすい名前がないのではないかと思います。それぞれに工夫しているところだろうと思いますが、それだけにたとえば「おまんこ」という言い方はより性的な意味合いを含んだ、生々しい言葉として響きます。

これは外性器の形に由来するのかもしれません。つまり男性器は身体の外に出るために目に付くのに対して、女性器は身体の中にあるために目に触れることがなく、前者はそれが露出され、後者はこれが隠されています。このことが性に関する社会的取り扱い方と並行しているようにも思えますが、いずれにしても男性期はその名前において、露出されます。

それだけに男性器にも本来はあるはずの生々しさがはぎ取られてしまいます。たとえば、日常の育児の中でよく言われる次のような言葉に「おまんこ」を当てはめてみるだけでこのことは実感されます。

「おちんちんを触らないよ」「そんなにおちんちんを触ってるとばい菌入るよ」「おちんちんよく洗ってごらん」「(着替えずにうろうろ遊ぶ子どもに)おちんちん出したままなんて、恥ずかしい」

性的な意味合いなしに性器を呼べる方が良いのか、性器を呼ぶ上ではそこに特有の生々しさが言葉にも含まれていた方が良いのか、それは良く分かりません。「おまた」という言い方で男性期に対しても女性期に対しても、これをほのめかす言い方もあって、その方が好まれる可能性もあります。けれども、現状、男の子の性器はこのように露出した形で扱われがちです。

別の例を挙げると、メディアへの露出を考えることができます。ここでのメディアとは、主に広告を指しています。これについては最近テレビを見ないため、現在の状況を知らないのですが、一昔前であれば小さい子ども(赤ちゃんを含む)の映像や写真が使われる際に、裸の子どもが出てくるものは、そのほとんどが男の子のそれでした(これもデータがあるわけではないのですが)。どうして女の子は出てこないのだろうと小さい頃に思っていたことがありますし、大きくなってからはそれが社会的なコンセンサスなのだと考えるようになっていました(あまり納得していませんでしたが)。

でも今考えると、これはこれで性的刺激への暴露であるし、性が社会的にどのように取り扱われるかを子どもたちに伝える装置になっているのだろうと思います。

男の性は露出から保護されない。そのことはたとえば、昔の男子トイレが外から見える、もしくは見えても構わない形で設置されることがあったという点にも現れます。新しい建物ではまず見られないだろうと思いますが、男子トイレには扉がないことがありました。ストレートに外から見えることがあれば、角度によって外から見えることもありました。扉があっても昔の西部劇の酒場の入口のような、腰の辺りだけが隠されている形であることもありました。

小便器と大便器の扱い方にも違いがあって、小便器は男性同士では晒されているのですよね。その理屈はわかりませんが、女性の立場からは、トイレの隣同士の壁がない状態で用を足しているところを想像してもらえれば良いかと思います。

あるいは男子トイレや男性の風呂には女性の清掃員が入りますが、逆はほとんどないでしょう。これに関する例外は、銭湯の番台が男性で、女性の脱衣所が見える場合くらいだろうと思います(考えてみるとそれはそれですごいことですが)。

そのことに問題を感じるかどうか、がここでのポイントではありません。このことに問題を感じることがないような社会的な構造が存在し、おそらく男の子の発達において、そして男の子の性についての社会的コンセンサスの発達において、このことが問題とされずにきた、ということをここで取り上げています。

このような男の子の性の取り扱いがいつごろから始まったのか、という歴史的な経緯や文脈までは知らないのですが、こうした露出から保護されない、生々しさがはぎ取られている男性器の取り扱いが、男の子たちが晒されている性被害の一端を構成しているだろうと考えてみることができそうに思います。

たとえば、これをプライベートゾーンとして認めにくくなります。たとえば、トイレや風呂で人目に晒されることを恥ずかしいことと認識しにくくなります。例えば人に触られたりした時にこれを被害だと思いにくくなります。これを被害だと思うこと自体が恥ずかしいことだと思うようになります。性的刺激に晒されることを喜ぶことが当たり前になります。これを恥ずかしいと思うことも男らしくないと思わされるかもしれません。

そしておそらくより重要な問題として、性の露出が加害を生むようになります。この露出する傾向(あるいは露出から保護されない傾向)が、人前で裸になること、他者のいるところで性的な冗談を言うこと、他人の性的事柄をいじること、性的欲求を露出すること、などにつながっている可能性があります(いわゆる露出狂は別の問題だと思いますが、性差を考えるとどうなのでしょう)。もちろんこうした幼少期の性の露出は、リスク因子の1つとして位置づけられるものであって、それが性加害へと直結するものだとは言えません。

けれども、大事なこととして性を保護された経験なしに、人の性を大事なこととして保護することはできません。

男の子たちの育児における性の露出は、それが見えているだけに見えにくい問題になっています。生々しさが否認され、それによって育児が可能になるとともに、性教育が欠ける事態を招きます。ある意味では、広く薄く性被害を受けています。

あからさまな性被害も当然あります。幼い子どもに対する性的欲求を持つ人にとって、どうやら男子と女子の差は小さいらしく、そうした人からは女の子への加害と男の子への加害の両方を聞くことが少なくありません。隠れた性被害は数多くあるのでしょう。けれども、性(器)が露出することで、見られたり、触れられたり、いじられたりするということから男の子は保護されにくい、という面があります。

大人の側も、男の子たちの露出した性器や性的事柄を見たり、触れたりすることを性加害だとは考えてにくくなっているでしょう。話題にしたり、笑ったり、場合によってはいたずらをしたりすることも性加害だと考えにくいかもしれません。そうしてマイルドに性被害を受けるということが起こりえます。

女子の性被害よりも男子の性被害の方が深刻だとか、だから男性の性加害の傾向は仕方のないことだとか、フェミニストはこれを理解するべきだとか、そういうことを言いたいのではありません。そこにあるのに見えていない問題に少しずつ気が付いて、良くしていく他ないですよね、という話をしています。

男の子たちの広く薄く経験している性被害とそのリスク性について、最近そのようなことを考えています。それからどのように男の子たちの性的欲求が人目を避けて、地下に潜って、薄暗い性の発露につながるのか、ということについても考えています。性加害のあるところには性被害を思う、ということは性加害を考える上での原則だと思っていますが、もしも男の子たちがその育ちの中で、広く薄く性被害を受けているのだとすると、それはなかなか気の重い話だなと思います。

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