米澤氏の「愛着障害」本について:理論編

「愛着障害(ハート)愛着の問題を抱えるこどもを同理解し、どう支援するか?」を読みました。どうしてハートなのでしょう。

最初に触れておきますが、この本に出てくる問題はどれも愛着障害(アタッチメント障害)とは言えません。何度でも言いますが、こういうのは愛着障害(アタッチメント障害)概念の乱用(abuse)ですので、概念をこういうふうに使うその時点で、事実に誠実ではないのだなと思います。

以下ではこれを「愛着障害」と「 」をつけて記述します。

一晩で読めたのは分かりやすいということなのかどうなのか、理論編の前編と実践編の後編とに分かれていると理解して、後編は同じようなことの繰り返しであまり頭を使わなかったから、ということはあると思います。

前編では頭を使いましたが、理論パートを一言でまとめると「ひどい」という言葉に尽きるかと思います。今あるアタッチメント理論・研究に則った理解の枠組みに対して、新しい理解の枠組みを提唱しているのですが、それが不十分な理解に基づいているために、間違った骨組みで車輪の再発明を繰り返しているように思えます。

アタッチメントの本筋からは離れますが、たとえば、次のような記述があります。

ADHDの多動は行動の問題として起こることから、多動性障害と呼ばれています。これは、見て、あるいは、聞いて、触ってというような五感によって気づくという認知機能とは無関係に生じているものです。……認知される対象は、学校園所と家など、場所や状況、作業が変われば、当然変わります。……多動の現れ方はそれらに影響されず、「いつも」多動であることから「多動」と確認できるのです。(p.17)

「行動の問題」というものを「認知」にもとづかない(認知されたものに左右されない)という意味で使っているのかなと思うのですが、はたしてそう言えるでしょうか? ADHDの多動にだって状況依存的な要素は多分に含まれます。ADHDの多動とアタッチメントの問題から生じる落ち着きのなさや衝動性を区別する手がかりの1つは、確かに不安や恐れ、退屈さ、無力さとは無関係に、平穏な時や物事を楽しんでいる時でも注意の転動や落ち着きのなさが見られることです。情動的に何もないところで問題が生じる時、神経発達的な問題を考えることはできます(ただ銀行にお金を下ろしに行って財布を忘れるとか、話をしているだけなのにウロウロしているとか)。けれども、このことはADHDのある人が状況を認知し、その反応として注意の統制を欠き、行動の問題を生じさせることはない、ということを意味しません。

この適切でない理解にもとづいて、次のような話がされます。

行動の問題であるADHDでは、生起した行動に何らかの反応をして報酬を与えない、強化しないという対応をすると、その行動は消去され、行動をしなくなります。(p.19)

これに対して「愛着障害」では、と話は続くのですが、こうした雑な理解にもとづいて鑑別方法の話をされても、どこから間違いを指摘したら良いか、その作業量に思いをはせて日が暮れます。大ざっぱな理解にもとづくそれっぽく見える話は、しばしば現場ならではといって非専門家には歓迎されますが、困るのは当の子どもたちです。優しく間違った理解を流布することと、正確で難しい理解しか語れないことの功罪を対比してもなお、前者が許容されるわけではありません。

アタッチメントの本筋の話をしていきます。

本書では、「愛着障害」をいわゆるDSED、RAD、およびASDとの併存の3つのタイプに分けています(最後のものはDSMでは否定されると書いていてよく分かりません)。「愛着障害」の3大特徴というものが呈示され、注目をされたいアピール行動や愛情試し行動などの「愛情欲求行動」、他責行動をする「自己防衛」、自己高揚パターンや自己の優位性の渇望につながる「自己評価の低さ」といった3つの特徴は「愛着障害」からしか生まれず、このすべてに当てはまる時は「愛着障害」であるとされています。こどもへのかかわりが子どもからすると愛情として感じられず、持続的行動のエネルギーがたまっていくことがないと言い、このかかわりが愛情としてたまっていかないことを表すのが愛情の器モデルです。DSEDに相当するタイプは器に穴が空いているので、誰彼構わず触ろうとしますが、愛情がたまりません。RADに相当するタイプでは器ができていないので愛情がたまりません。ASDとの併存タイプでは入り口が狭い上にフタが空いてないことがあるため、タイミングを見て愛情を注ぐ必要があります。

そもそも愛着形成というものがどのようなされるかというと、愛着とは特定の他者との情緒的な絆のことであって、情緒・感情による絆の問題、あるいは情動、感情発達の問題として捉える必要があるという考え方のもとに、3つの基地の機能があることとして考えられています。それは、安全(secure)基地、安心(restful & relax)基地、探索(search)基地の3つです。安全基地はネガティブ感情の低減、安心基地はポジティブ感情の経験に関わり、この2つの基地から離れて探索ができ、戻ってきて安全・安心を確認し、さらに自分の行動・経験を共有するのが探索基地機能だと言います。この探索基地は安全基地から取り出された概念で、自立の基礎だと位置づけられています。

支援においては愛着対象となるキーパーソンを定め、感情のラベリングをして安全基地、安心基地を意識できるようになると愛情エネルギーが溜まっていくようになるそうです。その時に、子どもは感情発達が未熟なので、キーパーソンが主導権をもって(子どもには主導権を持たせず)、要求しなくても先に愛情を感じられることで子どもが安心感を抱くことができるように支援し、器の入り口を広げるようです。ネガティブ感情が低減するのは簡単ではないため、支援では安心基地、安全基地、探索基地の順で身に付くようにして、その結果愛着修復が可能になるとのことです。

さて。

アタッチメント理論や研究になじみのない方に、これがどのくらいひどいのかということがどれくらい伝わるものでしょうか。

第一に、愛着障害概念が不適切です。DSEDやRADを引きながら、これをスペクトラムと見なすのは愛着障害拡大派(と名付けますが)の人たちが比較的共通して持つ認識ですが、いつも言うように、アタッチメントが形成されていないRADと、アタッチメントの形成の過程で強い恐れが内在化され、その結果どのようにすると安心が得られるかが分からないアタッチメントの非組織性の問題とは別物です(DSEDは今ではアタッチメント障害からは分離されています)。どうすると安心が得られるかが分からない混乱の先に、アタッチメントが形成されない状態を並べられません。アタッチメントの質として、非組織状態にあり、混乱し、マイナスであることを突き詰めた先に、アタッチメント形成がゼロの状態があるというのはおかしな話です。

また、愛情欲求行動、自己防衛、自己評価の低さの3大特徴と言われても、これを支持する根拠は特にありません。アタッチメントの問題を考えた時に、子どもの示す行動上の問題をそのようにまとめたのですね、ということは理解できるとして、米澤氏はそうまとめたのですね、という以上のものではありません。つまり、アタッチメント研究者たちに共有された理解ではないということです。他の誰も分かっていないけれども、米澤氏だけがこれに気が付いている、ということもなくはないでしょうけど、そもそも愛着障害概念の使用が不適切である時に、その3大特徴を呈示されても、信憑性がありません。たとえば、愛情と憎しみの強い混乱、突然の虚脱状態、しがみついたり噛んだり叩いたりする原始的な感情表現という3大特徴といわれても、それはそれで問題の描写になるのではないでしょうか。

それから、こうした特徴が「愛着障害」でだけ現れるというのも、どうでしょう。こうした問題はたいていのアタッチメントの問題に見られます。けれども、たとえば障害があることで自己評価が下がることはありえます。勉強が出来なくても自己評価は下がるでしょう。体調不良になっても他責的になることはよくあります。自分がやりたいことができない時、うまくいかない時、仲間関係でつまづいた時、人からからかわれた時、好きな先生が退職したり、離任した時、一時的に、あるいはある期間、行動上の問題が生じることはめずらしくありません。非行領域で時々あるように、スポーツで挫折した後から問題が始まるようなことも起こり得ます。もちろん、こうした苦痛な状態に、これをケアするアタッチメント相互作用は影響をします。安心感のある養育者との関係では、こうした苦悩が大きな問題にならないことは想定されます。けれども子どもが大きくなればなるほど、こうした苦しみは、養育者の手を離れたところで生じ、仲間関係の中で慰められるようになっていきます。それがうまくいかない時でも、発達的に養育者を頼ることが難しい時期は訪れます。支援上は、どうやって養育者が、あるいは周囲の大人が、こうした問題に取り組むかを考えますが、ケアが届かないこと、ケアが十分でないこと、ケアが不適切であること、ケアが存在しないこと、はそれぞれ異なる問題です。スペクトラムで考える立場からは、アタッチメントの問題を「愛着障害」とラベル付けすることに抵抗はないのでしょうが、それでもこれは行き過ぎです。アタッチメントの視点から問題に取り組めるということと、アタッチメントの問題が原因であることとは同じではなく、ましてこれらが(本来の意味での)アタッチメント障害の主症状であるとする知見はありません。

もうこうなってくると「愛着障害」などと持って回った言い方をせず、かつての情緒障害というラベルの方が良いのではないですしょうかね。

第二に、アタッチメント形成の議論が独特過ぎます。secure baseを安全基地と訳すのは、単純に誤訳です。もともとBowlbyもAinsworthもsecurityを心理学的な意味で使っていました。物理的な意味で使われるのはsafetyです。これが英語の語感を反映してのものかは分かりませんし、BolwbyやAinsworthが間違っている、という議論は可能ではありますが、少なくともこれを継承するのであれば、secure baseは安心基地です。安全基地と訳されていた時代がむしろ適切ではなかったのです(安心と安全の関係はこの後触れます)。そして、探索はexplorationです。searchはどこから出てきたのでしょうか。純粋に疑問です。内容としても特に何かをsearchする要素はなく、もっぱらexplorationで記述されるものであって、よく分かりません。

アタッチメント理論では子どものネガティブ情動を調整する養育者の機能には確かに2つの概念を用いていますが、それは2つの基地ではありません。1つは安全な避難所safe haven、もう1つが安心の基地です。前者は、危険に際して子どもが戻っていくところ、後者は安心を得て探索に出かけるところと区別され、そのため、前者が危険に対するネガティブ情動の低減に関わり、後者は探索に関するネガティブ情動の低減に関わっていると言うことができます。前者が危険からの保護に関わり、安全に関わっており、後者は保護された後の安心に関わっていて、それが探索の足場になります。安全と安心はひとつながりです。これを安心感securityで代表しています。このひとつながりという発想はこの後にも出てきます。

さて、この議論の中で、それではポジティブ情動がどこにあるかというと、それはネガティブ情動の低減される関係の中にあります。ポジティブ情動だけを取り扱う概念はアタッチメント理論にはありません。それはポジティブ情動が重要ではないということではなく、物理的に保護し、心理的にケアする中にポジティブ情動が生まれることが想定されているわけです。これもまたひとつながりです。たとえば、子どもが何かできたことを一緒に喜び(スポーツの成績が良かったとか)、子どもが苦痛を覚えた時(試合で負けて落ち込んでいるとか)にはそれを無視する関係を考えると、なぜポジティブ情動を単独で扱わないかが分かると思います。情緒的に混乱した状態にある子どもにちょっと楽しいことを経験させて気持ちを落ち着ける介入をするとすると、それはポジティブ情動を扱ったということではなく、ネガティブ情動を調整したと見なされます。落ち着いた状態が慰められた状態で、ここに安心感があると言えます。けれども、養育者が楽しいことに子どもの目を向けさせたのが、ネガティブ情動を回避するためであったとすると、これは拒否と見なされます。困難な子どもの状態に対するポジティブな経験の使用の適切さは、このようにネガティブな状態の取り扱いという点から判断されます。

ここにあるのは、ネガティブ情動とポジティブ情動(という言い方は大ざっぱ過ぎて個人的にはストレスと並ぶ、あいまいな用語だと思っています)は入れ替わるという発想です。恐れや苦悩が和らぐ関係の中に安心があり、喜びがあります。ヒトのような生き物にとって、これは切り離せないということがアタッチメント理論の発想にはあると言えます。より純粋な喜びは探索の中で経験されるでしょう。つまり、安心の基地の機能の中に探索に伴う恐れを和らげて、できたという感覚(コンピテンシーに動機づけられた行動の結果としてのエフェクタンス)を味わうことが含まれ、当然ここにこれを背後で支え、一緒に共有する養育者がいます。

アタッチメント理論ではこのように、安全な避難所と安心の基地のそれぞれで苦痛と安心、喜びの経験を見ています。そして安心の基地は、それ自体で探索を含んでいます。米澤氏はあえてここから探索基地機能を取り出していて、その理由を支援の目標として共有しやすいから、と述べていますが、恐れが低減して探索に出かけられるという安心の基地の概念で足りない理由がよく分かりません。探索に出て、戻ってくる、困ったことがあれば帰ってくる、という動きの中から、探索の広まりや深まりを見いだすことはそれほど難しいことなのでしょうか。物理的な接触によって安全な避難所を使うことから、心理的な、あるいは気持ちを立て直すという動きの中に見られる内在化された安全な避難所の使用に移行することの中に、自律の確立を見ることがそれほど難しいのでしょうか。そこがよく分かりません。むしろ、感情だけに注目をして、ネガティブ感情を低減する機能とポジティブ感情を経験する機能を2つの基地に割り振るので、探索の収まりどころが悪いのではないでしょうか。

それは単に、概念的な理解が適切ではないということなのだと思います。

ちなみに、アタッチメント形成をこのように情緒的絆だけで説明をし、基地機能ができることで説明をすると、なぜ不安定なアタッチメントが形成されるかの説明が出来ません。というのは、子どもは誰か別の養育者ともっと良い関係を選べば良いからです。わざわざ基地機能を果たしてくれない養育者の元にとどまる理由がありません。まして、不適切な養育をする養育者の元にいる意味がないはずです。

アタッチメント理論がアタッチメントを生得的な傾性やシステムとして説明をするのは、こうした不安定なアタッチメント形成を説明するためでもあります。子どもは世話をする人に結びついてしまうのだと、それはたとえその人がネガティブ情動の取り扱いに問題があり、ポジティブ情動の共有に問題があったとしても、よく見知った人に結びつくようにできているのだということを強調するわけです。ある意味でここには進化論的なバグがある、とも言えます。不適切な養育をする養育者からも逃げ出す仕組みがあれば、人は不安定な、非組織なアタッチメントに苦しむことはなかったかもしれません。

でも、否応無しに結びついてしまうわけです。だから、これを情緒的な絆という定義よりもさらに精緻な、生得的な傾性とするのです。情緒的な絆を結ぼうとする仕組みがあることまで言及する必要があるのです。それは情緒的な結びつきであり、同時に行動的な結びつきであり、この結びつきに即して対人的枠組みが形成され、この心理学的現れが信頼感(不信感)であったり、愛情(憎しみ)であったり、他者の行為の予測であったり、内的状態の理解であったりするわけです。生物学的に安心を期待して近づくと不適切な養育による恐怖が存在し、それがまたくっつくことを動機づけるために、出口のない混乱状態に置かれてしまうのです。アタッチメントを感情として(おそらく愛情というポジティブな感情が想定されているのだと思いますが)理解するのは分かりやすい考え方です。でもそれは円周率を3とするようなフィクションです。世界はもっと複雑で、その複雑さの中に美しさがあります。せめて3.14くらいは扱えるようになりましょう、というのがアタッチメントを学ぶということだと思います。

続けます。

愛着形成支援という言葉がありますが、そのようなわけで幼児期以降、愛着はすでにあります。もしも愛着形成支援というものが成り立つとするなら、2歳まで、そして思春期の始まりまでに新しい(代理)養育者と暮らすようになった子どもの支援の中です(おそらく思春期以降に新しい養育者へのアタッチメントが形成されるのを期待することは難しく、むしろここから先は恋愛対象へのアタッチメントの要素を考えることになるのではないかと思うと同時に、愛着形成支援という言葉に含まれる押しつけがましさにも警戒感を持ちたいものです)。そのため、アタッチメントの問題を抱えた子どもたちの支援に必要なのは、愛着形成を支援することではなく、すでに形成されパーソナリティを構成している混乱を引き起こす内的な活性化のあり方を整えることです。そうした作業を修復といえるのかもよく分かりません。もともと混乱しているのであって、どこに戻るのか、と考えると、戻りようもなく、そうするとそれは修復ではないだろうと思うからです。むしろ修復という言葉に含まれる、問題を元通りなかったことにできるかのような語感に違和感を覚えます。人の傷つきは、癒されることがあるとしても、その回復は新しい何かになるのであって、元通りの何かには戻れないのです。

第三に、愛情の器というモデルは適切なのでしょうか。底が抜けているとか、器がない、という表現は分からなくはないですが、アタッチメントの問題はこのようにエネルギーが溜まらないこととして表現するのが適切なのでしょうか。エネルギーが溜まらないことが感情の問題を呈するのだとすると、この感情は何なのでしょう。そもそもエネルギーとは何のことでしょうか(おそらく感じられた愛情のことなのでしょうね)。

たとえば、この中に母子分離不安の話が出てきます(まず、「母子」が不要です)。分離不安というのは、離れることに不安を覚えることです。これはアタッチメントが形成されていることに他なりません。結びつきのない他者から離れることに不安を覚えることはないからです。アタッチメントは形成されていて、むしろそれが安心のできないものである、と通常のアタッチメントの視点では理解されます。これを愛着障害と呼ぶのは、端的に間違いで、他にも、誰かに意地悪をする、大声で泣き叫んで泣きやまない、嫌がられるような近づき方をする、などは情動や関係性の問題を示していますが、それは別に愛着障害の症状とは言えません。あるいは、愛着障害と判断する材料にはなりません。アタッチメントの問題はあるでしょう。この時に、こうした行動を(この本の言い方に倣えば)3つの基地の機能のいずれかがない、したがってエネルギーが溜まらないために問題が生じると考えられるとは限らないわけです。ここでいうエネルギーを良性のエネルギーと理解して、むしろ良性のエネルギーをため込もうとするにもかかわらず、それが悪性のものに変わっている、あるいは良性のエネルギーが欲しいのに、悪性のエネルギーが注がれる、というような混乱が、こうした情緒的な問題や対人的な問題にあると言えます。つまり、愛情が足りないと感じるのではなく、怖さがあるのだという理解がアタッチメント研究が呈示してきた知見です。

行動問題の基底にあるのは、生き残ろうと手を伸ばす、子どもたちの苦しみである、というのがアタッチメント研究者たちが大事にしてきた共通理解です。これを注目を集めようとしているとか、アピールであるとか、上に立とうとしているとか、自分を高揚させているとか、表現することがあるとしても、それが痛みに対する防衛(他責行動としての自己防衛という意味での防衛ではなく)である、というのがアタッチメントの視点だといえます。

この本で示されているのは、そうしたアタッチメント研究の知見の換骨奪胎です。あるいは、不十分な理解に基づいて、「本当の」アタッチメント理論を提唱する、というよくある誤謬の形です。おそらくBowlbyやアタッチメント研究者たちの論文を丹念に追ったことがないのではないでしょうか。アタッチメントという視点がこれほどの広がりを持ったのは、発達研究や、特に長期縦断研究による知見の蓄積によるところが大きいわけです。本書に見られるのは、そうした先人たちの積み重ねてきたものを、表面的な理解でさらって誤用する姿勢であって、それにはまったく共感できません。その意味で「ひどい」と言わざるを得ません。

おそらくもっと詳しく述べようと思えばもっと多くを語れるでしょうが(たとえば、アタッチメントの質やその問題の現れ方というのは養育の歴史を反映しているわけですが、そうした生育歴についての発達的視点がないことも気になります)、理論編はこれくらいに留めたいと思います。苦しみの理解は実践編でもう一度取り上げます。幸いにして、実践編は理論編ほどにひどくないと思っています。本書の価値はこちらの方にあるでしょうが、それを支える理論がガタついていることの影響が現れていないわけでもありません。

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