「愛着障害」に関する生産的でない仕事

数日前にlivedoor NEWSにこのような記事が現れたようです。

安易な「大人のADHD」診断に医師が危惧「特性」が「障害」扱い

精神科医の岡田尊司氏による記事ですが、2021年になっても同じようなことをしているのだなと思って、生産的ではありませんが、批判するべきことを批判しておこうと思います。

「大人のADHD」安易な診断、薬物治療は禁物? 先天的以外の原因は

「あれっ、ない!」「えっ、もう過ぎてます?」。物忘れに遅刻、自分はもしかしたら病気なのだろうか……。近年、「大人のADHD」が注目されている。だが、安易な診断は禁物だ。原因を見誤ると我が子にも影響が。

おそらくここは、リード文だと思います。もともとは「週刊新潮」2021年7月15日号 に掲載された文章のようで、そこについていたのか、今回の掲載にあたってつけられたのか分かりませんが、岡田氏の文章ではなさそうであるため、パスします。

 片付けができない。

 忘れっぽい。

 なくし物が多い。

 よく遅刻してしまう……。

 すでに立派な「いい大人」であるのに、まるで小学生のように「生活の基本」がなかなか守れない。

 あなたの職場にこのような同僚はいませんか? あるいは、もしかしたらあなた自身が、会社の机を整理できず、会議にしょっちゅう遅れてしまうことに悩んでいませんか?

 近年、こうした大人たちをこうカテゴライズする機会が増えています。

「あの人は発達障害だから」――。

「カテゴライズする機会」とは何でしょう。発達障害と診断されることが増えているという話なのだろうと思いますが、その診断が適切ではないため、「こうカテゴライズ」すると書くのは分かりますが、適切な診断を「つける」とは認められないため「機会」と呼んだということでしょうか。

 ADHD(注意欠如・多動症)やASD(自閉スペクトラム症)などの症状で知られる発達障害の診断に関して、臨床医である私は最近、異変が起きていると感じています。

「ADHDと診断され、薬も処方されているのに良くならない」

 こう訴え、私のところにセカンドオピニオンを求めてくる「大人」が急激に増えたのです。

 この現象に、私は「違和感」を覚えています。

 従来、ADHDは遺伝や妊娠中の飲酒・喫煙などの周産期のトラブル等、生まれ持った生物学的要因による神経発達障害とされてきました。その結果、多動や不注意、衝動性などの症状が出る。

 このような障害が子どもの発達段階で起きるものと考えられていたわけですが、それが今では多動や不注意で悩む大人にも広がり、ADHDと診断されることが増えているのです。「大人のADHD」です。

 この状況は、あたかも「発達障害診断バブル」「ADHD診断インフレ」とでも呼ぶべき状況です。しかし、ここは冷静になって考えてみる必要があります。

 多動や不注意。つまり、うっかり忘れ物をしたり、つい遅刻してしまう――。

 これらは、程度の差はあれ、誰にでも起きることでもあります。

 一体、どれくらいの頻度で忘れ物をするとADHDと言えるのか、月に何回遅刻したらADHDなのか。客観的な診断の基準はなく、しかも、診断の決め手になる検査も存在しないため、「忘れ物がひどくて困っています」という主観的な訴えで、事実上診断が行われているのです。

 そして、ADHDと診断された人に投薬治療が行われるケースが少なくありません。生まれつきの神経障害なのだから薬物で改善できると。

 果たしてそうなのでしょうか。「客観的」な基準を脇に置き、「主観的」によく忘れ物をするあなたは本当にADHDなのでしょうか。

話に関係のないASDが出てくることは置いておくとして、大人のADHDをどう捉えるかには議論があるでしょうが、この文章には意図的なのかどうか、いくつかの誤謬があります。

1つは、幼少期からADHDを抱えて今では大人になっている人たちが考慮されていないことです。大人のADHDという言葉で、成人後に(青年期以降でしょうか)初めてADHDの診断を受ける人たちのみを想定しているように見えます。

もう1つは、幼少期のADHDであれば「どれくらいの頻度で忘れ物をするとADHDと言えるのか、月に何回遅刻したらADHDなのか」客観的な基準があるかのようであることです。診断の決め手になる検査とは何でしょうか。ちなみに診断の補助ツールであればコナーズなど子どもと大人に使えるものがあります。

3つめに、これをもって「主観的な訴えで、事実上診断が行われているのです」と述べていますが、ご自身がそうされているのであれば、それは診断の仕方が間違っているし、誰かがそうしているのであるとしたら、まずはその間違いを指摘することが必要かと思います。少なくとも、標準的な診断の仕方ではないため、明らかに間違った記述です。

4つめに、「生まれつきの神経障害なのだから薬物で改善できる」とのことですが、生まれつきかどうかに関わりなく、神経学的な状態が薬物によって改善することは期待できるし、一定以上の改善がもたらされない限界も当然あります。それは、精神科医であれば共有された理解ではないのでしょうか。

〈「岡田クリニック」(大阪府枚方市)院長の岡田尊司氏は、京都大学などでの研究の傍ら、京都医療少年院等にも勤務し、精神科医として「現場」と向き合ってきた。そして現在、自身のクリニックで臨床の場に立ち続けている。

 そんな岡田氏が感じたという異変。実際、2006年と19年の人数を比べると、通級におけるADHDの児童生徒数は15・1倍に増加し、それと並行するように「大人のADHD」も注目を集めている。しかし、「安易」な発達障害診断は、先に触れたように「不要」な薬物治療という弊害を誘発しかねない。

「ブーム」となっている感がある発達障害。我が子、そして自身がADHDではないかと悩む人が増えるなか、必ずしも世間の理解は進んでいるとは言えないようだ。〉

ここは編集部の方でつけた文章と思われるため、コメントをしません。

「特性」が「障害」に

 ADHDの特性のひとつである不注意は、言い換えれば「うっかりミス」です。日々の生活や仕事の中で、誰もがミスをすることがあるわけですが、不注意の要因とは何でしょうか。

 例えば睡眠不足。OECD(経済協力開発機構)の調査によると、日本人の平均睡眠時間は7時間22分で、ワーストワンでした。睡眠時間が短ければ当然、集中力は落ち、不注意は起きやすくなります。また、継続的にストレスに晒され、長時間IT機器に触れることでも集中力は低下する。さらに、現代人はさまざまな形で脳を酷使していますから、必然的にイライラしやすくなり、衝動性も高まります。

 こうした状況で、成人の半分以上が不注意に悩んでいるというデータもあります。では、成人の半分以上がADHDなのかと言われれば、もちろんそんなことはありません。

 つまり、それほどの頻度ではない不注意や衝動性に悩み、精神科医のところに駆け込んでADHDの診断を受けるケースが増えていることになります。

ここも議論がすり替わっていますが、(1)ADHDの特徴の1つである不注意を取り上げながら、(2)睡眠不足による不注意の話と混同し、(3)微妙に衝動性も取り上げ、(4)脳の酷使という漠然としたストレス状況の記述と混同し、(5)それによって過剰診断を印象づけています。

本当に他の精神科医がこの程度の理解で診断をしていると考えているのか、という疑問を抱きます。

 そもそも、遺伝要因等から起きる「本来のADHD」は、忘れ物が激しく、毎日遅刻するのに本人は悩んでいないというケースが多い。症状はあるのに深刻に捉えていないことが特徴とも言えるのです。

 他方、「大人のADHD」はこの逆です。あくまで「主観的な生きづらさ」によってADHDと診断され、場合によっては薬物が投与される。ADHDでよく投与されるのは「コンサータ」という薬ですが、これは、謂(い)わば、ゆっくり効く覚醒剤で、短期的には脳の覚醒度を上げ、中枢の認知度を高める効果が期待できるものの、中長期的には神経が過敏になり過ぎ、抑うつ症状や、不安障害といった弊害を起こすリスクも想定される。したがって、私は安易に投薬治療を行ってはいけないと考えます。

 たまにミスや忘れ物をしてしまう人を「普通の人」と捉えたとします。しかし、本人はその頻度をもっと少なくしたいと悩んでいる。身長で言うと、170センチのごく平均的な「普通の人」が、もっと背が高くなりたいと成長ホルモンを打ってもらうようなもの。「大人のADHD」への安易な投薬は、これと似ていると言えます。私には、この状況が適切なものとは思い難い。

本来のADHDが悩まないとは何を見てそう言っているのか、理解に苦しみます。どれだけの人が自らの特性に苦しんでいるか、ご存知ないのでしょうか。ひどい話です。安易な投薬治療に反対することに異論はありませんが、それ以前に安易な障害理解を正す方が先ではないでしょうか。

 では、なぜ「大人のADHD」の概念が広がったのか。それには「勉強至上主義」が影響していると思います。昔であれば、中卒で仕事をする人も少なくありませんでしたが、昨今では高校はもちろん、多くの人が大学まで進学します。つまり、学校の勉強ができることが重視され、それが苦手なことは人としてのひとつの「特性」に過ぎないのに、「障害」扱いされるようになってしまった。「学校の勉強に集中できない子=ADHDあるいはLD(学習障害)」という構図です。これが大人にも敷衍(ふえん)され、「不注意な大人=大人のADHD」、「片付けができない大人はADHD」となっていったのです。そして、脳の「障害」なのだから薬を飲めば治せるという認識も広がってしまった。

それ以前に安易な障害理解を正す方が先ではないでしょうか。

大事なことなので2回言いました。

米国では離婚率が急増し…

 そもそも遺伝要因の「本来のADHD」は、小学校までに多動、不注意といった症状が明らかに見られ、生活に支障を来している場合を言います。そうでなければ、ADHDとは言えません。

 したがって、大人になってから「ADHD的」な症状が現れるようになったケースは、発達障害ではなく、他の要因を考えなければなりません。うつや不安障害、さらには何らかの依存症によってADHD的な症状が出ることもありますが、それ以外の大きな要因と言われているのが「愛着障害」です。

やはり大人のADHDを、大人になって初めてADHDと診断された人たちに限定しているようです。そして、これは本来のADHDではない、他の要因を考えなければならない、と言った後でこう言います。

「大きな要因と言われているのが「愛着障害」です」。

言われていません。

脱抑制型対人交流障害とADHDの鑑別が難しい、もしくはアタッチメント(愛着)の問題がある時にADHD様の状態を示すということは言われています。しかし、それは子どもについてずっと指摘されてきたことです。大人のADHD的症状の要因としてアタッチメント障害が挙げられることは寡聞にして存じません。

 例えば虐待を受けたり、親に見捨てられたりと、子どもの頃に親との関係が不安定だった経験がある人は、何年か経ってからADHDと似た症状を発症する場合があるのです。こうした後天的なケースが、「大人のADHD」として近年、目立つようになっている。

「本来のADHD」は、実は18歳になる頃までに、7割強の人で症状が軽快します。一方、愛着障害による「大人のADHD」では、逆に年齢が上がるにつれ症状が強まっていく。また、先にも述べたように「本来のADHD」の人はあまり症状を気にしません。他方、「大人のADHD」では、症状は軽くても異様に気にして悩む傾向が強い。これらの点が、両者を見分けるポイントと言えます。

ここもいくつもの間違いがあります。ここまで来てもこれが作為的なものなのか、(言葉が悪いですが)理解が悪いためなのか、残念ながら判断がつきません。

まず、虐待を受けたり親に見捨てられるという経験を、親との関係が不安定だったと記述することは不適当です。それどころの話ではありません。極端な養育関係の問題を「不安定」と広く取れる言葉にすることで、誰もが抱えている親子の問題まで想像させ、読者に自分のことだと思わせようとしているのだとすると、医療従事者として悪質です(そうなのかは分かりませんけど)。

いずれにしてもアタッチメント関係の問題を抱えると、「何年か経って」ADHD的症状が出る、というのですが、ここでは「何年か」という言葉で大人になってからということが想定されているようです。これも間違いです。乳幼児期のアタッチメントの問題は、(つながるとすれば)乳幼児期からADHD様の状態につながります。大人になるまで時間がかかるようなことはなく、仮に大人になってからそうした状態に至るとしても、それは大人になるまでの蓄積として考えられます。潜伏期のようなものはありません。乳幼児期にアタッチメントの問題を抱え、青年期以降に初めてADHD様の問題を抱えたという知見は私の知る限りありません。「何年か経って」とか「後天的」という言葉が、ここでは事実とは異なる範囲にまで広げられています(これも意図的にそうしているのか、理解が悪いのかは分かりません)。

さらに本来のADHDは18歳までに症状が軽減すると述べていますが、目に見える衝動性は減るとも言われる一方、不注意な傾向が残ることは少なくなく、発達段階によって症状や困りごとの現れ方も異なることが明らかにされています。「愛着障害」について語る前に、安易な障害理解を正す方が先ではないでしょうか(3回目)。

それから、アタッチメント障害は「年齢が上がるにつれ症状が強まっていく」というようは報告は、私の知る限りありません。ここは何の話をしているのかが、よく分かりませんでした。

悩むか悩まないかも関係がありません。そのため、「これらの点が、両者を見分けるポイントと言え」ません。

〈「先天的」な発達障害かと思っていたら、実は「後天的」な愛着障害だった……。薬の濫用の無意味さが、改めて浮かび上がってくる。〉

編集部におかれましては、「愛着障害」診断の乱用の無意味さをご理解いただけると幸甚に存じます。

 愛着障害とは、虐待やネグレクト、養育者の交代などの養育要因によって愛着形成が破綻し、対人関係や情緒面、社会的発達に問題が生じる状態を言います。例えば離婚です。

「ADHD大国」と言える米国では、1960年代から70年代にかけて離婚率が急増し、その頃から虐待も増え続けている。離婚や虐待の増加に伴い、愛着障害由来の「大人のADHD」も増えました。

ここは、離婚がアタッチメント障害の要因だと言っているのか、アタッチメント障害によって問題が生じた1つが離婚だと言っているのか、よく分かりませんが、2つ目の文章からすると、離婚率が増え、虐待も増え、その結果アタッチメント障害も増え、大人のADHDも増えている、ということでしょうか。

まず、離婚程度ではアタッチメント障害にはなりません。少なくともそのようなまとまった知見は私の知る限りありません。第二に、「愛着障害由来の」大人のADHDの増加の報告も私の知る限りありません。そもそもアタッチメント障害と大人のADHDを関連づけた研究を知りません。

 また、児童における「本来のADHD」では男子の割合が高いのに対し、「大人のADHD」では差がないか女性の方が多い。これは、女性の方が男性より、愛着面で傷を受けやすく、引きずりやすい傾向があるためと考えられ、愛着障害のひとつの特徴と言えます。

アタッチメントの安定性について、女児の方が不安定型のアタッチメントから安定型のアタッチメントに変わりにくいという報告はあります。その点で、女性の方が問題を抱えやすいということは言えるかもしれません。けれども、アタッチメントの問題を抱えることによってADHD様の状態を示すことについて、女児にその傾向がより強く見られる、という報告は、私の知る限りありません(「ない」ことを示すのは難しいのですが)。

ここでは、大人のADHDに性差がないことと、女児の方がアタッチメント問題を引きずりやすいことと、女児についての知見と大人の女性とが混同しています。これもわざとなのかそうでないのか、特に研究における女児と女性の区別がついているのかは、よく分かりません。

ついでながら、アタッチメント障害が女児に見られやすいという報告も私の知る限りありません。そういう報告を読んだことがないので検索をしてみましたが、性差について、検索結果が出てきませんでした。深く潜れば何か見つかるかもしれませんが。

 ADHDと見誤られるケースが多い愛着障害の種類として、近年、脱抑制型愛着障害(DAD)が注目されています。これは、誰にでも見境なく甘えようとするタイプの愛着障害です。親からの愛着が不安定だったために、自分が本来頼っていい相手とそうでない相手の見分けがつけられず、そのため次のような特徴的な症状が見られます。

 親しい人と初対面の人の区別なく、馴れ馴れしく振る舞う。

 ブレーキが弱く、気持ちや欲求のままに行動してしまう。

 気を引こうとする行動を取る。

『赤毛のアン』や『アルプスの少女ハイジ』の主人公にも、DADの特徴を見て取ることができます。彼女たちは相手を疑うことなく懐(なつ)き、気持ちのままにおしゃべりしたり会話するところが魅力的なのですが、アンもハイジも、実の親とは別の養育者に育てられており、こうした養育環境で育った子どもにDADは高頻度で認められます。

 そしてDADゆえの行動が、多動や衝動性として現れ、「大人のADHD」と診断されてしまうことがあるのです。

脱抑制型愛着障害という診断名を使うことの是非はともかく、これを「誰にでも見境なく甘えようとする」と記述するのは不適切だと思います。「知らない人に対しても遠慮なく近づき慣れ親しい態度を取る」という表現くらいが適切ではないでしょうか。たとえば、エスカレーターの前に乗っている人に対して親しげに、プライベートな質問をすることもありますが、それが甘えているとは言えないためです。

ちなみに「親しい人と初対面の人の区別なく、馴れ馴れしく振る舞う」「ブレーキが弱く、気持ちや欲求のままに行動してしまう」「気を引こうとする行動を取る」という特徴は、ICD-10の診断基準に基づいているものと思われます。これ自体間違いとは言えませんが、ICD-10が登場したのは1990年です。まだ、アタッチメント障害について十分な整理が行われていない段階の基準であり、これはICD-11で大きく改訂されています(それまでも何度か改訂されてはいるのですが)。アタッチメント障害をめぐる医学的混乱には、ICD-10が少なからず寄与しているのではないかと思っています。

さて、現在では脱抑制型対人交流障害(DSED)と呼ばれるこの問題について、「アンもハイジも、実の親とは別の養育者に育てられており、こうした養育環境で育った子どもにDADは高頻度で認められます」とも述べられていますが、これも間違いです。これでは養子縁組みや里親依託の環境もDSEDの要因とされてしまいます。

反応性アタッチメント障害(RAD)もDSEDもどちらも強度のネグレクトによって引き起こされる状態であると考えられています。そして、RADに有効な治療は、安定した養育環境の提供だと言われています。それに対して、DSEDでは安定した養育環境の提供が状態の改善に寄与しないとも言われています。その意味で養子縁組みや里親依託があってもDSEDが持続するということはあるかもしれません。けれどもそれは実の親とは別の養育者に育てられたから、という話ではありません。人生早期に生じた問題がそう簡単にはなくならない、という話です。

少なくともこれを分かっていない、もっというと「実の親」に育てられていないことを挙げる段階で、アタッチメント障害について語る資格はないと思います。これが意図的なものかそうでないかは関係がありません。

ついでに、小さいながらも見逃せない記述があります。「親からの愛着が不安定だった」というものです。

岡田氏はアタッチメントについてほとんど何も分かっていないと言わざるをえないと思います。

〈根深き「愛着」の問題。これは、今後この「親子問題」シリーズで扱う別のテーマとも深く関わってくるため要注目だが、では安定した愛着を築く上で、親子の接し方としてどのようなことに気をつけるべきなのか。〉

そういうわけで、根深いのは岡田氏の問題です。

 母親から子どもへの愛着は、産後48時間が重要だとのデータが存在します。授乳などで、とにかくこの時間に母子が密に接することが大切になります。

 逆に子どもから母親への愛着は、生後半年から1歳半までの間に形成されると言われています。したがって、その期間はできるだけ母親と子どもが一緒にいる時間を作ることが大切です。

「母親から子どもへの愛着」(2回目です)。

そもそも大人のADHDとして始まった話に、乳幼児期の母子関係の在り方を論じてどうしようと言うのか、呼んでいて混乱します。仮にこれまでに述べられてきたことが正しいとして、乳幼児期のアタッチメント関係について述べることはADHD様の状態に対する予防としては意味があるでしょう。けれども、それは母子関係に限定されるものではありません。「したがって、その期間はできるだけ母親と子どもが一緒にいる時間を作ることが大切です」というのも、正しくありません。母親は仕事をしても問題ありません。自分の趣味のための時間を持っても問題はありません。親、祖父母など少数の養育者が継続的に養育に関わっていれば(その質が問題なければ)、子どもの全体的なアタッチメント形成に問題はありません。

半世紀以上にわたるアタッチメント研究の蓄積をなんだと思っているのでしょうか。

そしてなぜここで予防の方を論じるのかが分かりません。

「症状」と「病気」

 一方、この時期の愛着形成が充分ではなかったとしても、後から修復することも可能だとされています。そこで大事なのは、子どもの安全性を脅かさない「安全基地」になること、そして「応答性」です。子どもが求めてきたら応じる。逆に、子どもが求めていないのに口出しすることは慎む。求めれば応じてくれる。このことが安定した親子関係、愛着形成に役立つのです。

 親が都合の良い時だけ子どもに関わり、子どもが求めている時には気づかなかったり、無視してしまう。これは親中心の押しつけに過ぎず、子どもとの安定した愛着は形成されません。そうならないためには、常に細心の注意を払って子どもを見守る必要があります。親子関係というものは、常に真剣勝負なのです。

アタッチメントの問題は、確かにある程度、後から修復は可能です。その時に養育者が安心の基地(以前は安全基地と呼ばれていました)になることも意味のあることです。ですが、子どもの年齢が上がれば「しつけ」と呼ばれる子どもの社会化が必要になります。「子どもが求めていないのに口出しすることは慎む」だけでは成り立つわけではなく、どの養育者もここで苦労するわけです。

これを乗り越えるためには、子どもにとって過度の負担にならないように社会化を行うこと、そのために子どもにとって過度の負担になっているシグナルに気付くこと、子どものシグナルに気付くための手がかりを養育者が持っていること、などが求められます。また、すでにアタッチメントの問題を抱えているのであれば、子どものシグナルの出し方が「歪んだ」、「問題行動」的なものとなっていることも考えられます。そのために、分かりにくいシグナルから子どもの状態を推測できる手助けが必要になります。

予防について語るのであれば、こうしたことを具体的に論じなければならないだろうと思います。

そうしたことをせずに、「常に細心の注意を払って」「親子関係というものは、常に真剣勝負」といったような漠然とした、不必要な不安と負担をあおる臨床家は信用しない方が良いと私は思います(言葉が足りないか、過ぎただけで、実際には良い人なのかもしれませんが、文章は書かないでいただくと、間違いを訂正する労力を節約できてありがたく思います)。

 こうして安定した愛着が形成できないと、愛着障害を抱えたまま成長し、「ADHD的」な症状だけでなく、生きづらさを抱えやすい。子どもの頃に自分のペースを尊重してもらえなかった人は、周囲の人、そして自分の子どもに対しても一方的な関わりをしてしまいがちです。自分が尊重してもらった経験がないので、どうすれば一方的ではない関わりができるのか、その思考回路を充分に持ち合わせていないためです。

「こうして安定した愛着が形成できない」と「愛着障害を抱えたまま成長」するわけではありません。アタッチメントが安定していないことと(この場合の安定はsecureということで、安心感がないということです)、アタッチメント障害であることとは、別物とは言わないにしても、概念的に同一ではありません。

そして話は結局大人のADHDから離れていっています。ADHD的な症状だけではなく、と言っていますが、そもそものADHD的症状の困りごとはどこに行ってしまったのでしょうか。他動や不注意の問題が、いつの間にか対人関係の問題にすり替わっています。いったいいくつ話がすり替わるのでしょうか。

書き方や文章作成能力の問題かもしれませんが、このように次々に話が混同され、取り換えられると、どうやって患者さんの話を聞いているのだろうという疑念を抱きます。

ことここに至ると、そもそも岡田氏には大人のADHDへの関心がないのかという思いを抱かざるをえません。本人にはそのつもりがないかもしれませんが、「愛着障害」について語るダシとしてこれを使っているだけではないでしょうか。それは、セカンドオピニオンを求めてきた人にとって不幸なことに思います。

 この場合、専門的な訓練が必要となってきますが、一番幸運なのは、安全基地となる恋人や伴侶との関わりの中で、愛着が安定し、症状も改善していくことです。残念ながら、身勝手なパートナーに出会ってしまうと、傷つけられてその逆も起きてしまいますが。

 こうした丁寧な理解と支えが必要な愛着障害の人が、ADHDと安易に診断されてしまっているのが現状なのです。症状が似ているので「ADHD」という概念で一緒くたにされてしまうわけです。愛着障害が素通りされてしまっては、いくらADHD用の薬を投与しても問題は改善しません。症状をもたらす肝心の原因が誤っているのですから。

「専門的な訓練」とは何のことでしょうか。ここはアタッチメント障害の文脈なのだと思いますが、アタッチメント障害を治療するための、あるいはそれを改善させるための、専門的な訓練は私の知る限り存在しません。アタッチメント障害の議論される乳幼児に対しても訓練などありません。これがアタッチメント問題である以上、アタッチメント対象との関係を通して改善が行われ、そのための関係の支援が提供されるのであって、個人に対する訓練というのはアタッチメントの発想ではありません(その点でだんだんと子ども個人への心理療法というものは主流ではなくなっていっています)。

「専門的な訓練」ということで、ご自身のクリニックに誘導している、ということなのでしょうか。よく分かりません。

岡田氏は「こうした丁寧な理解と支えが必要な愛着障害の人が、ADHDと安易に診断されてしまっているのが現状なのです」と言っていますが、ご自身が安易に愛着障害の診断をしているのではないでしょうか(安易なADHDの診断の問題というものがあるとしても)。

 今日の医学教育の礎を築いた内科医ウィリアム・オスラー(1849~1919)は、「症状ではなく、病気を治せ」と説きました。

 不注意だけでなく生きづらさで悩んでいるとしたら、「症状」はADHDであっても、「病気」は愛着障害なのかもしれないのです。

 そして、あなたが発達障害であろうとなかろうと、子育ての仕方次第では、我が子を愛着障害や「大人のADHD」にしてしまう危険があることを知って、関わり方を変えていく必要があると思います。

 それは、専門家の間でも疑問が高まっている「ADHD診断インフレ」から我が身を、そして家族を守る術でもあるのです。

私としては、「愛着障害診断インフレ」からご自身と家族を守るために、「母子」関係を強調し、親の愛着を言い、子育ての不安と不満を煽り、愛着障害の診断をつける医療者や支援者からは距離を取ることをお勧めします。

それと、リード文とおぼしきものを読んでいて思ったのですが(「原因を見誤ると我が子にも影響が」という部分です)、「そして、あなたが発達障害であろうとなかろうと、子育ての仕方次第では、我が子を愛着障害や「大人のADHD」にしてしまう危険があることを知って」という部分は、もしかすると世代間伝達の話をしているのでしょうか。世代間伝達であれば乳幼児期に問題が出てくるはずで、大人になって初めて診断されるここで言うところの大人のADHDまで待つような話ではないと思うのですけど、論理構成としてどうなっているのでしょうか。ちょっと理解が難しかったです。

何だかいろいろな要素を一緒くたにまとめて、最後は何のことだかよく分からない話になっていますね。

長くなりましたが以上です。

結局、大人のADHDとして議論されていることを大人になって初めてADHDと診断された人の話に限定している、それを主観的な困り感に基づく診断であると歪曲している(と言わざるを得ないと思います)、ADHD理解も乏しい、そこに本来は関係の薄い「愛着障害」を持ってくる、そもそもアタッチメント障害に関する知見の理解が適切でない、そのうえアタッチメントそのものの理解が適切でない、最終的に母子関係の問題に還元し、大人のADHDに対しても、アタッチメントの問題を抱えるに至る養育者の苦しみに対しても、アタッチメントの問題を抱えて生きる(かつての、もしくは今の)子供たちの苦悩にも、目が向いていない、ほとんど見るべきところのない文章であると私は思います。残念ながら。一見するとそれなりの話がちりばめられていて、読みやすく読んでしまう人もいるでしょう。でもこれだけ間違った考えを振りまいていては、いったい誰の助けになるのでしょうか。

生産性がないし、誰かを批判するというのは心を削られる行為なのですが、こんなことを何年続けるのでしょうか、という気になっています。でも、こうした話に釣られてしまう人がいるとすると、それはひどいことだと思います。

そろそろ精神医学の方で、どうにかしていただけないものでしょうか。

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