愛情とアタッチメントを区別する

子どもと大人の発達と臨床におけるアタッチメント理論の重要性が増してきて、それなりの人がこれを知り、語り、使い始めるようになると、さすがに「アタッチメントと愛情は同じものではありません」という話も広がってきました。教科書的にそのように理解されることは大切なことですが、その内実を把握しておくことはもっと大切なことですね。「キリンさんが好きです、でも、ゾウさんの方がもっと好きです」というようなことかもしれません。

ゾウにもアタッチメント相互作用は見られます

0.始まりのアタッチメント

愛情とアタッチメントの区別は、初め、それほど明確ではありませんでした。精神分析は子どもと養育者(精神分析の文脈ではほぼ母親)の間の結びつきを愛情と呼び、今でも愛情として扱っています。Bowlbyはここから新しいモデルとしてのアタッチメント理論を創出しました。とはいえ、精神分析が愛情というところのものを比較行動学的に定義した、というのがアタッチメントの位置づけだと言うことができます。そうすると、Bowlbyは愛情を観察可能なアタッチメント行動によって表現されるアタッチメントとして概念化した、と見なすことは可能なことで、実際初期の文献には愛情(love、affection)がしばしば登場します。「キリンもゾウも結局、有蹄類じゃないですか」という主張は分からないでもない話です。

この両者がいつから分離して行ったのかはよく分かりませんが(よろしければどなたか修論か博論のテーマにどうぞ)、少なくともBowlbyがアタッチメントをその機能として危険からの保護を備える動機づけシステムとして定義づけた段階で、両者の差異は大きくなることは運命づけられていました。

いくつかの点からこのサイを明確にしてみたいと思います(キリンの蹄は2つで偶蹄目ですが、サイの蹄は3つで奇蹄目ですね)。

1.主体

アタッチメントの主体は子どもです。子どもの特定の養育者への特定の結びつきがアタッチメントと呼ばれます。これはほとんど定義の問題で、養育者の子どもへの結びつきをアタッチメントと名付けるのであれば、その主体は養育者と言うことはできます。ジラフだって日本に来ればキリンと呼ばれているのです。

けれどもここには名称や定義を超えた非対称が存在しています。トムソンガゼルをキリンと呼べば呼べますが、そのことがトムソンガゼルとキリンのサイをなくすわけではありません。養育者の子どもの結びつきと子どもの養育者の結びつきとの非対称性がなくなるわけではないのです。

2.保護と安心

その非対称性をもたらしているのが、養育者による保護と子どもの経験する安心です。これがアタッチメントの中心的な要素であり、この相互作用をアタッチメント相互作用と呼んでいます。子どもは安全と安心を求めて養育者に結びつき、養育者は子どもを保護し世話します。これが逆転することは子どもに混乱をもたらします。

このことは臨床上きわめて重要で、この重要性のためにアタッチメント理論が広まって行ったと言っても過言ではありません。

養育者は子どもに保護を求めません。もしも求めれば、それは役割逆転と呼ばれます。子どもから慰めを得る、危険に際して子どもに守ってもらう、子どもが養育者の世話をする。こうしたことは子どもの発達を歪めます。なぜなら、子どもの少ない身体的、心理的リソースを養育者を守り慰めることに消費するためです。自分が安心を得るために使えるリソースが残されません。

野生において洞窟に養育者を置いて子どもが食べ物の採取に出ることが、火をくべて養育者を暖めて自分は冷たい空気の中にいることが、どれほど過酷なことかを考えてみれば分かることです。養育者に安心があるとしても、そのことは子どもに安心があることを意味しません。

ここには非対称性があり、定義を変えたところでキリンはトムソンガゼルではありません。愛情は双方向性を持てますが、アタッチメントは相補性を持つのです。子どもと養育者の間に愛情があるかどうかではなく、子どもが安全と安心を手にしているかが鍵なのです。

3.関係における適応

したがって、この非対称性は、養育者への子どもの適応を必要とすることになります。子どもが保護と世話を求めて養育者に近づきます。養育者は子どもに安全と安心をもたらします。それは子どもの潜在的な求めに対する、養育者の適応を意味します。アタッチメントの相互作用とは、養育者による子どもへの適応なのです。

これとは逆の適応が2つあります。

1つは、insecureと呼ばれるアタッチメントです。子どもが安全と安心を確保しようと保護と世話とを求める時に、養育者がこれに応答できない(と子どもが知覚する)と、子どもは養育者のやり方に合わせて近づくことを選択します。なぜなら、子どもはそうしてでも保護と世話を得ることが必要だからです。こうして子どもは養育者の養育(応答性)に適応することになります。

もう1つは、しつけの問題です。アタッチメントが安全と安心を得ようとする生存のための仕組みであるのに対して、しつけはヒトの集団の中で過ごすための社会化を要請するものです。服を着ること、食器を使うこと、トイレに行くこと、叩いたり蹴ったりしないこと、言葉を使うことやその言葉遣い、挨拶の仕方、お金の知識と使い方、など発達の過程において子どもは無数の社会的なルールを学んで行きます。あるものは自発的に、あるものは自動的に学ばれていきますが、多くのものが養育者による制止と方向づけとをもって教えられていくものです。ここにおいて、子どもは社会化のための適応を果たすことになります。アタッチメントが本来養育者の適応を必要とするのに対して、しつけないしは社会化は子どもの適応を求めています。

ここには相互の愛情だけでは説明できない非対称の関係性が存在しています。キリンとは首の長いトムソンガゼルではないのです。

4.愛ある拒絶

愛情ということでいえば、しつけもまた愛情の現れであるかもしれません。子どもの成長を願い、より良く生きていけることを願って子どもの社会化を促すことを愛と呼ぶことはできるでしょう。けれどもこれをアタッチメントの相互作用ということはできません。むしろそれらはしばしば対立します。

安全と安心を求め、保護と世話を求める子どものニードに対し、養育者がこれに応えないことは、アタッチメント理論の中でしばしば拒否rejectionと呼ばれます。アタッチメント理論とは、空間的な理論でもあり、近づこうとする子どもを遠ざける養育者の行動を拒否と呼んでいます。

たとえは、病気で泣いている子どもを叱ること、お腹が空いている子どもを無視すること、困って相談する子どもをわずらわしく思うこと、そうしたことを、養育者本人の意思とは関係なく、行動上拒否と呼んでいます。したがって、食器をうまくつかえずにぽいっと捨てる子どもを叱ることは拒否にあたります。つらいことや嫌なことを我慢させることは拒否にあたります。勉強が難しくて諦めたくなる子どもに勉強を続けさせることも拒否にあたります。けれどもそれが必ずしも一般的な意味での拒否を意味しているわけではありません。むしろ、社会化を進めて行くために、養育者も苦しみながら退路を防いでいることだってありえます。

ここには愛ある拒絶が存在しうるのです。

この区別もまた子どもの育ちを考え、臨床的に関わる上できわめて重要で、アタッチメントは安全と安心を中核とする相互作用に関わるということは、愛情に潜む苦しみを拾い上げることに寄与するのです。

愛は万能ではありません。元気があれば何でもできるほど、世界はシンプルなものでもありません。アタッチメントとしつけの相克は、生き物としてのヒトが人間的性質を備えて行くための、過酷な進化のプロセスでもあります。キリンとサイとトムソンガゼルの食べ分けほどに、きれいな区分ができたらどれほど気楽なことでしょう(キリンは高い木の葉を食べ、サイは低い木の葉を食べ、トムソンガゼルは草を食べます。ちなみにゾウはいろいろ食べます)。

5.危険と動機づけ

話は最初に戻ります。アタッチメントは危険な状況で、もしくは危険が予測される状況でとりわけ意味を持つ結びつきです。つまり、犬に吠えられてしがみつく、そのしがみつきがアタッチメントの存在を示唆するものであり、この行動がアタッチメント行動と呼ばれるものなのです。これを動機づける仕組みが、アタッチメントシステムの活性化として概念化されています。

アタッチメントとは結びつきであると同時に、そのような結びつきを作り出す傾性predispositionであり、ここの危険な状況において行動を引き起こす動機づけのシステムであると考えられています。

犬に吠えられて養育者にしがみつく子どもは、愛情があるからしがみつくわけではありません。愛情はむしろ対象の選択に関わっていて、愛する対象にしがみついてはいるでしょう。けれどもしがみつきを動機づけるのはアタッチメントだと言えます。そして、その状況は危険な状況であるのです。ここの動物たちに食べ分けとともに生息地の違いがあるように、アタッチメントと愛情は、それが意味を持つ文脈に違いがあるのです。その意味で愛情とは全般的な結びつきです。

この違いは、臨床上、次のような理解をもたらします。

養育者からの拒否が強く、それでも子どもが養育者に適応する時に、これを愛情と肯定的に評価することはありうることかもしれません。より過酷な、虐待的関係の中でさえ活性化されるしがみつきを子どもの親への愛と理解すれば、親子の分離をためらうこともあり得ます。愛を理解することは、愛に潜む苦しみを見落とすことにつながります。

このような過酷な状況で、それでも子どもが養育者を愛することを、アタッチメント理論はこう説明します。

「そのような仕組みになっているから。」

それだけの話です。子どもは養育者からの拒否が強まれば、恐怖にさらされて、しがみつくことを動機づけられます。拒否されればされるほどにしがみつき、したがって行動上、愛情の強い子どもに見えるかもしれません。愛情に飢えているとラベルを付けられるかもしれません。けれどもこれはそういう仕組みが作動しているところなのです。本来であれば、そこで安全と安心を得てしがみつきは終わるところ、この仕組みがうまくいっていないために、子どもは安全と安心を得ることなく、したがってそのリソースを養育者との関係を維持することにすべて割り振ります。恐怖にさらされながら恐怖の源泉にしがみつく苦悩は、関係性のトラウマと呼ばれることになります。子どもの側に、そして養育者の側にさえ愛情があるとしても、それは残念ながら安全と安心を保障しないのです。

6.終わりに代えて鯨偶蹄目について

このように、いくつかの点で、アタッチメントを愛情から分けておくことは重要です。アタッチメントの形成されているところに愛情は存在しています。けれども愛情の存在しているところに、安心感のあるアタッチメントが存在しているとは限りません。そのどちらもが子どもと養育者の関係においては欠くことのできないもので、だからこそ愛情の中でもがくことが生まれます。アタッチメントを愛情から分けておくことは、この苦しみを捉える上で、決定的に重要なことなのです。

かつて、キリンもゾウも、サイも、トムソンガゼルも、どれも蹄があるということで有蹄類と呼ばれていました。その特徴を共通のものとして動物をまとめることは理に適ったことに思えます。けれども、生物学の発展とともに、キリンとトムソンガゼルはウシの仲間として、もっというとカバの仲間として、クジラやイルカに近い種であることが明らかになってきました。今ではこれは鯨偶蹄目と呼ばれています。ゾウは長鼻目として、サイは奇蹄目として、異なる分類のもとに置かれています。クジラやイルカとカバが仲間だなんて誰が想像できるでしょう。しかもクジラやイルカは水中に残り、カバたちが地上に進出したのではなく、一度は地上で生活したもののうち、再び海中に戻ったものがクジラやイルカなのです。何を好き好んで肺呼吸で水に暮らそうと思ったのかは分かりませんが、進化って本当に不思議なものですね。

という話ではなく、そのように近しく見えるものを近しいものとして考えることが必ずしも適切なことではないのです。もちろん、分子生物学的に特定される生物の分類よりも、愛情とアタッチメントの理解は複雑でしょう。アタッチメントシステムという生物学的行動システムを想定するのであれば、そのシステムが明らかになった時に、アタッチメントは本当の意味でその実在を証明することになりますが、さしあたって今は、こうして愛情とアタッチメントは区別されています。その区別は、生きることの恐れを、とりわけ愛情に潜む苦しみを、捉えるために重要なのです。

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