(この記事はnoteの転記です。タイムスタンプは2019/10/26 23:10です。)
アタッチメントに関する研修の一環として司法・矯正や児童福祉の領域で事例検討を重ねると、事例の記述の仕方で気になることがあります。かなり一貫して見られる現象なので、特定の機関や施設の問題ではないのだろうと思いますが、子どもたちが(大人でもそうですが)示す問題は関係論的に生じていることを考えると、変わっていくといいのではないかと思うところがありまして、そのことについて記してみたいと思います。
たとえば、次のような記述に出会うことがあります。
○○年 A出生。
○△年 両親離婚。母親が育てられないとのことで、母方祖母宅に引き取られる。
△△年 保育園では1人で過ごすことが多かったが、かんしゃくを起こしトラブルになることもあった。
△□年 祖母の養育が困難になり、Bに入所。
□☆年 母親からの引き取りの希望があり、帰宅。
☆☆年 自宅から金銭持ち出し。
事実関係としては確かにそうなのかもしれません。ここからだけでもいくつかのことを読み取ることが出来ます。たとえば、離婚の形で父親との分離があること、おそらくそれは喪失(離別)でもあること、その後主要な養育者が母親から祖母に代わっていること、ここで母親からの分離もあること、この後、感情調整に困難があったかも知れないこと、やがて2人目の主要な養育者であった祖母とも分離を経験すること、そして見知らぬ環境であるBに移されており家庭養育の喪失があること、さらに施設からの分離と母親との再会があること、その後何かしらの問題を抱えることになり、それが金銭持ち出しとして表出していること、などです。
これらについて、分離が子どもにどのような影響を残したのか、同じ分離であっても離婚、養育者の交代、施設の退所などではそれぞれ考え得る影響が異なっていることを踏まえて、子どもの経験を見積もること、あるいは乳児期のアタッチメント関係の問題がどのように幼児期の仲間関係に反映されるのか、乳幼児期のアタッチメントの発達と行動問題の発達が児童期の問題につながるのかを考えて、子どもに内在化されている問題を想像すること、ある特定の行動問題はどのような力動を背景としているのかを踏まえて、その時点までに子どもが経験してきたであろう出来事を見積もること、なども可能だとは思います。
けれども、それらの推量にあたって、こうした情報があればもっとうまく見立てが出来るだろうというものがあります。足りない情報があります。それが関係的な記述です。
たとえば、両親の離婚は不和によるものなのか、不和は情緒的暴力や身体的暴力を伴うものであったのか、それは長期間続いたのか、ということは気になるところです。離婚それ自体は夫婦の最終的な決断でしょう。けれどもそこに至るまでの過程があり、この時間が子どもの育ちに影を落としている可能性があります。その影はどのようなものでしょうか。
あるいは離婚はある日いきなり子どもに知らされたのでしょうか、時間をかけて知らされていったのでしょうか、何も知らされることなくある日(この例で言えば)父親がいなくなったのでしょうか、そもそも父親とは離別したのでしょうか、ということも気になるところです。離別は子どもにとって分離や喪失として潜在的に外傷的な経験です。それがある日何も予期することなく生じたのであれば、子どもの心はそれに持ちこたえられないでしょう。子どもの育ちに落ちる影に、予期しない切断を考えることが出来ます。
あるいは、離婚について子どもに説明はされたのでしょうか。特に、離婚について、つまり潜在的に外傷となる出来事について、不安や戸惑い、怒りや抑うつを経験する子どもが、その胸の内を主要な養育者としての(この場合には)母親に、あるいは祖母に尋ね、話し、ぶつけることができたのでしょうか。それも気になるところです。生きていく中で私たちは色々な不幸に出会います。不幸なしには生きられないと言っても良いかもしれません。それでも私たちが(それなりに)健康に生きていけるのは、そうした不幸な経験が誰かに、しばしば養育者に、もしくはアタッチメント対象にケアされるからです。離婚という外傷的な出来事は、何が起きたのか子どもに分かるように説明され、とりわけ子どものせいではないことが繰り返し伝えられ、分離と喪失に伴う悲しみや苦しみの表出が妨げられることがなく、そうした悲嘆の苦痛が和らぐまでの時間支えられることで、(それなりに)健康に生きていけるだけの傷つきになります。そのようなことが起きたかどうかは、この出来事が子どもにどれだけの影を落としたのかを見立てる上で、とても大事な情報です。
さらに、父親は本当に離別したと考えて良いのかどうか、離婚後も関わりがあるとするとどのような関わりであったのか、そのことに母親は、あるいは父親はどの程度葛藤的であったのか、も考えたいところです。つまり、この潜在的に外傷的な問題をくぐり抜けていく過程で、養育者が自らのニードにかかりきりになる程度が、子どものニードに応答することをどの程度阻害するものであったのか、ということが、子どもが何を内在化していくのかを予測する上で重要な情報なのです。
こうした養育者によるケアに加えて、子どもの反応もまた記録され、報告されるべきものです。
離婚に際して子どもの状態が不安定になることは、子どもの健康さを示しています。分離や喪失の経験は子どもにとって痛手であり、機嫌が悪い、落ち着きがない、言うことを聞かない、よく泣く、静かにしていられない、ご飯を食べない、寝つきが悪い、乱暴になる、かんしゃくを起こしやすい、などの状態は、苦痛な状態におかれた子どもの正当な反応だと言えるでしょう。離婚について、父親の所在について尋ねることもあるでしょう。父親を恋しがりもするでしょう。それは母親にとってつらいことかもしれません(それだけに子どものニードに答えることが難しくなります)。それでも、子どもにとっては正当な反応です。そして、こうした反応が生じることは、少なくともそうできるだけの安心感のある関係が存在していることを意味しています。もしもそうした反応が見られないのであれば、子どもは自分のニードを抑えていることになり、そうしなければならないような適応の仕方を、その時点までに身につけていたことになります。
祖母の家に移った時には、どうだったのでしょうか。それまでの生活はどのようなものだったのか、祖母宅に移ることは誰からどのように説明されたのか、祖母宅に移ってからの1、2週間、および1ヶ月程度の移行期間はどのようにケアされ、子どもはどのような状態を示したのか、食事の時、眠る前、(もしかしたら)母親から祖母に連絡があった時、あるいはふとした時に、子どもは手のかかる子どもにならなかったのか、それは母親や父親への思慕という点から理解できる行動ではなかったか、この難しい移行を乗り越えるだけの強さを子どもは示したか、そうであるとすればそれはどこで身につけたものだろうか、ということを考える必要があります。
こうした子どもの反応に、養育者はどのように応答し、その養育に子どもはどのように反応したのか、相互作用的な連鎖の中に、子どもの経験の内実を読み取ることが出来ます。施設に移った時にはどうだったでしょうか。
ある1つの出来事は、たんなる事実ではなく、子どもによって生きられた経験です。事実の記述から、生きられた経験を復元するために、私たちは、その前、そのさ中、そしてその後のそれぞれの段階で生じていた関係的な相互作用的を追いかけ、検討し、想像する必要があるのです。それはまた、ただある時の出来事の理解としてだけではなく、子どもが経験する苦悩のサンプルとして、あるいはパターンとして、それ以降の子どもの姿を理解する視点に採用することが可能なものでもあります。
まとめると、記録され報告されるものとして、例にあげた情報の最初の2行に限定しても、以下のような情報が加えられる必要があります。
○○年 A出生。
(両親の関係、それに対する子どもの反応、それに対する親のケア、それ
に対する子どもの反応)
○△年 両親離婚。
(経緯と説明、それらに対する子どもの反応、それに対する周囲の大人の
ケア、それに対する子どもの反応)
(父親とのその後の関係、それについての母親の反応、それらに対する子
どもの反応、それに対する親のケアと周囲の大人のケア、それに対する子
どもの反応)
母親が育てられないとのことで、母方祖母宅に引き取られる。
(経緯と説明、それらに対する子どもの反応、それに対する周囲の大人の
ケア、それに対する子どもの反応)
この後に続く保育園での問題は、これらの蓄積と、さらに祖母宅での養育についての情報、さらに保育園での保育の情報を踏まえて考えられるものです。
同じようなことを施設の入所に際しても、さらには退所に際しても考えます。入所前の情報は児相によってもたらされるでしょうし、入所後の情報は施設によって記録されるでしょう。これに児相の記録も平行するかもしれません。そのどちらにおいても誰がどのように子どもに関わり、子どもがどのように反応したのか、という関係的な、相互作用の記述があることで、ようやく子どもが何を経験し、何が内在化され、どのようなことが未消化な出来事として残されていて、どのようにそれが問題へとつながっているのかという姿を浮かび上がらせることができます。
事実の記録と報告は重要なものですが、それは子ども(あるいは大人)の理解の断片です。その事実の関係的相互作用的側面が、子どもの心的過程として取り入れられ、内在化されていくのです。そのため、日常の記録において、そして引き継ぎの書類において、あるいは事例検討の報告において、こうした関係的な記述があってほしいと思っています。
もちろんそれが十分ではないこともあるでしょう。けれども、ある出来事の前後の関係的、相互作用的出来事を考慮するやり方が身に付けば、自分の行なう支援や介入についても、同じように考えてみることができます。「私」が関わることの意味を、その中に見いだすことができ、それは手応えとやりがいにもつながるでしょう。
子どもが1つの事実ではなく、1人の主体であるように、したがって関係的な出来事が生きることを可能にするように、「私」もまた1つの出来事ではなく、1人の主体として、その関係に参加しています。その実感が支援者として生きることを可能にします。その意味で、関係的な記述は支援者にとっても大事なことだと思うのです。