(この記事はnoteの転記です。タイムスタンプは2019/09/28 20:45です。)
アタッチメントの研修をしていて、よく思っていたのですが(今度出る本を校正していても思ったのですが)、アタッチメントの話は養育者にはつらいところがあるかもしれません。アタッチメントの安定性が養育者の敏感性によるという話をするからです。先日、研修の感想として実際にそんな意見をお聞きして、まあそうですよね、と思いました。
私が研修で話をすることを1分でまとめると、だいたい次のようなことになります。
アタッチメントは生物学的なシステムとして、養育者との近接を図り、維持する傾向を持っています。それはアタッチメント行動として表現されますが、これに対する養育者の応答の質がアタッチメントの質を左右します。養育者が子どものシグナルにうまく応答できれば、子どものアタッチメントは安心感のあるものとなり、そうでなければ安心感に欠けるものとなります。それは精神衛生上の問題を生み出すリスクとなって、それだけで後の不適応を引き起こしはしないものの、その土台となります。そのため、不適応の基盤に安心感の欠如があって、その環境で生きのびようとしてきた子どもの努力があります。そのため、行動問題として表わされる子どもや大人の不適応から、持ち越されてきた安心への傾向と、それが叶わないための防衛的方略と、それに関与した養育者の応答の痕跡を見いだすことができます。これを読み取り、応答する、支援者の敏感性が問われることになります。
実際のところ、子どもや大人が抱えることになる問題の全ては養育者のせいではなく、行動問題から時間をさかのぼって読み取れる苦境に見られるのは養育者の敏感性の乏しさだけではありません。ある部分は周囲の大人との関係の中で蓄積されたものでしょうし、ある部分は周囲の子ども同士の関係の中で蓄積されたものでもあります。養育者との関係の中で蓄積されたものがあるとしても、それは実際に起きたことの反映というよりも(Bowlbyはそう考えていました)、空想に色付けられたものかもしれません(もっと穏当な表現を使えば、主観的な経験に由来するものかもしれません)。
研修の聴衆には支援者を想定しているため、支援者が当面、子どもや大人の現在の状態から、これまでに経験してきた関係性と、その結果蓄積されてきた、今なお活性化しているアタッチメントの傷つきを想像できればそれでいいと思って、あまりこのあたりの、敏感性の関与は現実か知覚かという問題は大きく取り上げてはきませんでした。アタッチメントの観点は実証研究に依拠していますし、その研究はさまざまな形で観察されたデータを元にしています。そのため、実際の相互作用がどのように後の発達に寄与するかという結果を生みだしていて、逆に乳幼児期の相互作用の主観的な知覚がどのように後の発達に寄与するかという研究はないように思います(少なくともアタッチメント領域で顧みられるほどの規模では存在していないと思います)。そのため、どうしても相互作用のある側面を、現実のものとして取り上げることにはなっています。
むしろ、実際の相互作用がうまくかみ合っておらず、養育者の敏感性が問題になっているのだとすると、それ自体が養育者が潜在的に支援を必要としている状況だ、と考える方向にアタッチメント研究者は動くのだと思います。養育者が単独で養育を担うのではなく、子どもを養育する中で養育者にも活性化しているアタッチメントに、誰が敏感な応答を提供するのかということが問われていて、このことがむしろ問題の所在であると考えているように思います。その発想がよく現われているものの1つに、van IJzendoornのLess is moreという論文がありますが、要約すると、乳児のアタッチメントの安定性を高める介入は、5回程度のセッション数で養育者の行動に取り組むのが良く、長くても効果はないし、内的な問題を扱うことも効果が薄い、というものです。生後半年から1年の間がアタッチメント形成の初期段階であることを考えると、時間をかけてゆっくりととは言っていられないし、これについて素早く改善を図る支援の手立てが社会に用意される必要があるということが謳われているわけです。
子どもの知覚や主観を問題にすると、養育者の応答性の質はいきおい、問われなくなりがちです。それは養育者の敏感性の問題をことさらにあげつらうことのない語り方であると同時に、問題を子どもの経験の仕方に内向させる語り方ともなります。アタッチメント研究はむしろ、応答性を外部へと広げていく方向性を持っています。そうして現実を取り扱い、支援の場は面接室ではなく、相互作用へ、生活へ、そして制度へ、社会システムへと広がっていきます。
養育者の敏感性の問題になると養育者にはつらいところもある、という感想に、養育者がつらくならなくていいような、バックアップ体制が整備される必要がありますね、というのが現状のアタッチメントの視点ではないかと思います。
でも、アタッチメントへの関心が広まって、さまざまな人がこれに触れる機会が出てくる現状を考えると、少し語り方を変えていく必要があるのかもしれません。事実でないことを言うことは出来ないし、知見から考えうる以上のことを言うことは出来ませんが、注釈を付けつつ話すということを、とりわけ養育者について語る時には、支援者を対象とした場であっても、考える時期に来ているのかもしれないなと思いました。
支援者もまた養育者であったりしますしね。