研修について

(この記事はnoteからの転記です。タイムスタンプは2019/06/24 04:19です)

noteを始めてみました(こういうことを始めると書き過ぎて疲れるのだと思っていましたが、案の定書き過ぎました)。

研修について書いてみます。

私がこの仕事を始めた時にはすでに、自己研鑽のためにはお金を払って学んだ方がよいという文化がありました。私もそう思って来ましたし、今でもそう思います。おそらく潜在的には多くの方がそう思ってはいるのでしょう。

その一方で、この業界の経済状況を反映して、研修にお金をかけられないという人が増えてきたように思います。臨床心理士の(公認心理師も変わりはないでしょう)平均給与は3-400万円です。共働きでなければ、生活をするだけで精一杯でしょう。お金がなくて研修を受けられないとか、SVが受けられないという声は以前からありました。それが今や無視できないほど大きな声になりつつあるのではないか、というのが私の実感です。

もちろんそのような苦労とは無縁の人たちもいるでしょう。お金がない中でそれぞれに工夫を凝らして研修を選び、身になりそうなものに投資をしてきた人たちもいましたし、今でもそうしている人はいるのだろうと思います。置かれた状況は人によって異なりますが、問題はここに漂っている閉塞感です。いつまでたっても、どこまで行っても生活が楽にならない、この先に広がっているはずの専門家としての伸び代を現実化することも、そもそも伸び代があるかどうかを確かめることも、できはしない、という失望感が、じわじわと私たちの足下を覆っている気がします。

そのことがもたらす帰結はそれほど想像に難いものではありません。業界全体の衰退です。

これから研鑽を積まなければならない若手(もしくは新人)が、能力の向上という点において先細りであるということは、将来を担う人材が育たないことを意味します。研修の場を提供するベテランにお金を払う人がいなくなることも意味します。それが業界全体に行き渡るのであれば、知識や経験の伝達も、蓄積も、精緻化も為されることなく、滅びを待つ文明のような面持ちで、私たちは世界の日暮れを眺めることになるのでしょう。

それはなにより、臨床心理学的サービスを享受するはずの人たちが、求めるサービスを受けられないということを意味します。私たちは今いる場所で、やがて来る誰かのために私たちの能力を向上させることを願っています。あるいは、今誰かがいる場所で、やがて来る誰かのために誰かが能力を向上させることを願って研修の場を提供しています。そうして誰かの、何かの、助けになることを願って私たちはこの世界に足を踏み入れ、今でも足を置いているのだろうと思います。

閉塞感はそこにあきらめを持ち込みます。緩慢な死をもたらします。これは私たちが願っていた未来なのでしょうか。

とはいえ、このことは臨床心理業界だけの問題ではなく、むしろ今の日本がおかれている状況を反映した、よくある風景であるのでしょう。いくつかの要因が考えられます。たとえば、経済的停滞が、あるいは再分配の問題が、さらには専門性の軽視が、私たちの世界を取り巻いています。

抗いましょう、というのは簡単です。でも、どうやって?

知恵や工夫や努力で乗り切ることができるとすれば、それはとても素晴らしいことです。でもこの問題は、各人の資質や努力に任されるようなことなのでしょうか。研修に時間とお金を使えないことは、各人の努力の問題ではなく、むしろ構造的な問題なのではないでしょうか。

小さくなっていく氷塊に乗った白熊に、泳ぎたまえと言うあなたは誰ですか。

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