negative capability その2

(この記事はnoteの転記です。タイムスタンプは2019/07/14 00:30です。)

negative capability が文学界においてどのような概念として取り上げられているのかはよく知りません。どのようなところで、どのようなものとして使われているか、なぜこの概念が必要とされているのか、そうした文脈については分からないのですが、精神分析においては前回も取り上げたように、Bionによる再発見があって広く知られています。

しかしながら、Bionの取り上げ方は、その表現においてキーツとの微妙な差異を生み出しています。「表現において」というのは、その実態において差異があるかは文学的な用いられ方が分からないために、よく分からないためです。

もともとのキーツの文章はこうでした。

ぼくは「消極的能力(ネガティヴ・ケイパビリティ)」のことを言ってるのだが、つまり人が不確実さと不可解さとか疑惑の中にあっても、事実や理由を求めてイライラすることが少しもなくていられる状態のことだ

それに対し、Bion の取り上げ方はこうでした。

精神分析家は、被分析者がそれが何であるかを認識するまでの間十分に、被分析者の違いと困難に耐えることができなければなりません。もしも精神分析家が被分析者の言っていることを解釈できるようになるのだとすれば、精神分析家は自らが解釈を知っているという結論に駆け込むことなく、被分析者の陳述に耐える、非常な能力を有しているに違いありません。

私が注目しているのは、「耐える」というところです。キーツはこの言葉を用いていません。むしろもっと穏やかなものとしてこれを考えていそうです。キーツがこの概念を手紙にしたためた翌年(といっても数ヶ月後の1818年2月19日の手紙ですが)、このような手紙を仲間に送っています。

マーキュリーのように飛び回るよりはジョーヴのように腰を下ろしている方が高貴というものだ——ぼくたちもだから蜜蜂のようにせわしく飛びまわって蜜をあつめるようなことはしないようにしよう、自分がどのようなところまで達成できるかそれを知ろうとして、いらいらとあちこちぶんぶん飛びまわることはしないようにしよう。そういうことはやめて、花のように自分の花びらを開き、受身の態度で受容するようにしよう——太陽の神(アポロ)の眼の下でじっと蕾をつけたまま、訪れるすべての高貴な昆虫から暗示を受けることにしよう——樹液は肉となり露は飲みものとなるだろう

その手紙にはつぐみの語るソネットが添えられています。その一節にこうあります。

おお 知識を追い求めるな——知識はなくても
私の歌は 暖かくなればおのずから生まれる
おお 知識をもとうと焦るな——知識はなくても
夕暮れは聴いてくれる

この感覚が、私にはキーツが言う negative capability であるように思えます。ここにある態度を持って受身とか受容とかいう言葉で negative capability を文学者たちは訳した可能性についても考えるのですが、そこまでは調べられていません。けれども、世界に開かれ、受身でおり、おのずから生まれ、聴いてくれることを期待できるありようを、そこに「とどまる」ことをキーツは negative capbility といったように思うのです。ここには「耐える」というほどの苦痛な感覚はありません。むしろしばしばキーツ自身が言う、陶酔の感覚があります。

同じ1818年の10月27日の手紙です。少し長いのですが引用します。

詩的性格そのものについていえば(ぼくもその端くれであるような類のもののことを言ってるのであって、ワーズワス的つまり自我性の強い崇高さとは違う種類のものだ。ワーズワス的性格はそれ自体で存在し、それだけで孤立して存在しているものだ)詩的性格はそれ自体ではない——それ自体というものをもっていない——それはあらゆるものであり、また何ものでもない——それは性格をもっていない——それは光も影も受け容れる。それは喜びの中に生きるが、その喜びが清いものでも汚れているものでも、高くても低くても、豊かでも貧しくても、卑しくても高貴でもかまわない——それはイモジェンのことを考えるのとおなじに、イアゴーのことを考えて大きな楽しみを味わう。徳の高い哲学者に衝撃を与えるようなことでも、このカメレオン詩人を喜ばせる。物事の暗い面を味わっても、明るい面を味わう場合と同様害を生じることがない、というのはその両面のことは終始観照の中のことだからだ。詩人というものはこの世に存在するものの中で最も非詩的なものだ、というのは詩人は個体性を持たないからだ——詩人は絶えず他の存在の中に入って、それを充たしているのだ——太陽、月、海、それに衝動の動物である男や女は詩的であり、不変の特質を身につけている——詩人にはそれが何もない、個体性がないのだ——詩人はあきらかに神のあらゆる創造物の中で最も非詩的なものだ。詩人が自我をもたないとすれば、そしてぼくがその詩人なのだとすれば、それはもはやぼくが詩を書いているのではないと言ってもどこに不思議があるだろうか。

精神分析的に、ここに(コミュニケーションではなく)思考の一形態としての投影同一化を見てみることもできるかも知れません。自我はいくつかに分割され、対象の中に入り込み、そこから世界を経験します。そうして詩が生まれてくるのです。キーツはこうした行き方をワーズワス的な自我性と対比させ、詩人としての非個体性、あるいは非詩人性として考えています。そのために「もはやぼくが詩を書いているのではない」となるのでしょう。

1819年に入るとキーツは評価の高いオードを書き始めます。同時に恋人ができます。私はロマン派全体を知っているわけではないのですが、少なくともキーツのロマン主義的傾向は青年期的な恋の彷徨い、つまり恋人のいない恋心から成り立っているのではないかと思っています(それはそれで説明が長くなりそうですが)。しかし、この頃からキーツは弟の死を経験し、自らも病にかかり、生活は困窮し、といったように現実の諸問題が次々に目の前に立ちはだかります。そのためにかつてのように、美を謳うだけでは済まなくなっていたのでしょう。言い換えると、この後キーツの negative capability の重視は少しずつ後退していって、むしろ詩人としてよりも哲学者として、生まれてくる詩に対して熟慮をして、詩を作るようになります。確かに創造にはそのような生まれくるものと生みだされるものとの異なる作用に由来する生成物が(ないしは異なる作用の結合が)必要となるのでしょう。その時代の詩が高く評価されるのは、よく分かることです。

したがって、negative capability とは、いくらか甘美な、青年期的憧れを備えた概念です。それは Bion が重視するような情動的経験が耐えがたいものであることがそれほど考慮されていない概念です。「耐える」ことの差異はこのようにして生み出されたのだと思います。キーツの概念化に「耐える」ことはありませんでした。これは Bion による創作です。

このことを示唆するように、1818年2月の手紙には、先に挙げた引用のすぐ後に、このような言葉が続きます。

さて、以上述べたことすべて、なにか真実らしきものがあるとしても、結局は自分の怠惰を言訳するための詭弁にすぎないことがぼくにはわかっている——だから、人はジョーヴのようにあるべきだなどという嘘を自分に言うつもりはない——人はやはり下働きのマーキュリーとかマルハナバチのようなものでいる方がうまくいくと思う

それは現実を生きる人間の姿勢ではなく、詩作をする(あるいは思索をする)ある一瞬の心の状態なのです。

しかしながら、それでもなお、あるいはそれだからこそ、この概念は Bion による、記憶なく、欲望なく、という精神分析家の姿勢と一致する詩人の姿を表わしています。私たちは生活者として分析的設定の中に身を置いているわけではありません。精神を分析するものとして、そこに腰を下ろしています。それはある一瞬の心の状態なのです。そしてその状態の中にあっては、自我性が放棄されています。私たちは、非個体性を備えた、非詩人的存在であり、negative capability とはこれを可能ならしめる能力なのです。ひるがえって、次のように言ってみることもできるでしょう。「最も精神分析的な瞬間、私たちは精神分析をしていないのです」。

negative capability について考える時、忘れられがちな観点が、positive capability とは何か、ということです。ここまでの議論から明らかなように、私はそれを「詩を作る能力」だと思っています。精神分析的状況においては、精神を分析する能力です。これもすでにここまでの議論から明らかなように、negative capability のもとでは、詩人は詩人でなく、分析家は分析家ではありません。そのため、この negative とは 「ではない」を意味しているのだと私は思います。

Bion による引用のために、negative capability はしばしば否定的情緒に、あるいは苦痛に満ちた情動に耐えることが強調され、そのためにこの negative は情緒的な経験の質として negative であることを連想させます。けれども、おそらくキーツはそのような意味で negative を使ったのではありません。それは positive ではないという意味で negative なのだろうと思います。世界に開かれ、啓示を受け、他の存在の中に入って世界を経験し、詩の訪れを待つ、そのような詩を作ら「ない」能力が negative capability なのだろうと思います。

したがって、その訳語には「生み出さない能力」を当ててはどうか、というのが私の提案です。この概念化のもとでは、詩も解釈も生まれてくるものです。茫漠とした世界から、点と線と空間のないところから、変形の関数を通り過ぎて、それは着想されるものです。言葉を換えれば、ここには無意識の自律性があるのです。このことは当然、意識作用の力によって「生み出す能力」と対比されます。実際の臨床はその両者の流れの交代の中に生じているのでしょう。

このように書くと、生み出さないことと生み出すことの弁証法的関係について考える人もいるかも知れません。

けれども私は、必ずしもこれらが弁証法的関係にあるとは思いません。そのような対立的な局面もあれば、生まれてくる着想と、生み出された着想とが、手を取りあって概念として定式化される局面もあるかも知れません。それと同時に、こうしたロマン主義的瞬間が終わって、現実の苦悩を昇華しなければならなくなる局面もあるでしょう。異なる2つの流れがあるときに、それを弁証法的に捉えることは、単純化された概念化です。

私たちは無意識への信頼のもとに精神分析的臨床を執り行っています。私たちが考え、振る舞い、とどまるときに、無意識もまたそれ自身のやり方で考え、振る舞い、とどまっています。Freud も Bion も、世界へと開かれる経路は無意識にあると考えており、世界が、あるいは事実が、最初にパーソナリティの一要素になる時に、Bion はそれを感覚印象と名づけています。無意識の領域に始まるこの変形の過程が、意識される時に Bion はそれを直感と呼びました。その言語を達成の言語と呼びました。

私たちは何も negative に capable であることを目指す必要もなく、記憶なく欲望ない状態にとどまる必要もありません。ただ、ある瞬間に私たちは negative に capable であることを発揮して、記憶なく欲望ない状態にあるのであって、それを可能にする設定が、精神分析的設定であり、なにより自由連想に身を置くことなのだと思います。これは目指される姿勢ではなく、ある瞬間に達成され、現前するものを事後的に呼び習わしているのです。

negative capability から200年あまりの時を経て、いまだに私たちはこれについての思索を重ねています。精神分析とはある程度、こうしたロマン主義的傾向を内在しているのでしょう。

そして当然、その瞬間には終わりが来ます。

夢の縁から押し戻されて、ほら、現実の課題があなたの背中に迫っていませんか?

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