(この記事はnoteからの転記です。タイムスタンプは2019/07/05 03:46です。)
この1週間ほど、空いている時間を見つけてキーツの書簡集を読んでいました。ジョン・キーツは19世紀初頭に活躍した詩人でした。とは言っても25歳の若さで生涯を閉じており、いくつかの知られた詩を残しはしたものの、それほど売れた詩人とはいえなかったようです。いくつかのオードが評価されていますが(たとえばナイチンゲールに寄せるオード Ode To A Nightingale など)、精神分析家がキーツを取り上げるのは、シェイクスピアを取り上げるのとは事情が違います。シェイクスピアはその作品の中に人間の心の有り様を刻み込み、それを素材として論が成り立つ、そのようなものとして取り上げられています。それに対して、キーツは彼が残した「negative capability」という概念によって精神分析家に知られています。
この概念は、文学界では詩の理論として注目されてきたもののようです。彼は詩よりもその理論の方が優れているという評価を受けるところもある、と物の本には書いてあります。そうした詩についての思索は、主に手紙を書く中で行われていたようなのですが、今回取り上げているnegative capabilityも例外ではありません。1817年12月27日付けの2人の弟に宛てた手紙の中にこれは現われます。
ディルクとさまざまな問題について論争ではなく考え合いをした。いくつかのことがぼくの心の中でぴったりと適合しあい、すぐに次のことが思い浮んだ。それは特に文学において偉大な仕事を達成する人間を形成している特質、シェイクスピアがあれほど厖大に所有していた特質、それが何であるかということだ––ぼくは「消極的能力(ネガティヴ・ケイパビリティ)」のことを言ってるのだが、つまり人が不確実さと不可解さとか疑惑の中にあっても、事実や理由を求めてイライラすることが少しもなくていられる状態のことだ––例えばコウルリッジは半解の状態に満足していることができないために、不可解さの最奥部に在って、事実や理由から孤立している素晴らしい真実らしきものを見逃すだろう。この問題は幾巻もの本を書いて追求してみても、たぶん、次のことに尽きるだろう。つまり偉大な詩人にあっては美の感覚が他の全ての考えを征服する、あるいはむしろ抹消するということだ。
「キーツ 詩人の手紙」 田村英之助(訳) 冨山房百科文庫
これはキーツが22歳の時の手紙です。この年に最初の「詩集Poems」を出版しています。私の印象では、この頃の手紙は、まだ美と真実を捉え人びとにそれを伝える、詩への理想と野心にたぎる若者の姿を映しているもので、この後に長大な「エンディミオンEndymion」の第1巻を出版しますが、その頃からの方がむしろキーツの人としての、詩人としての成熟が見て取れるように思います。その意味では、negative capabilityは、何かを形に為したいと煩悶するさ中に浮かび上がった、若さゆえのきらめきであったのでしょう。
negative capabilityが登場するのは実はこの一度きりなのです。これをBionは取り上げました。そして、それによって精神分析家たちの間にこの言葉が知られるようになっていきます。Bionはよほどこの概念を重視していたようで、これに言及する時には毎回、大文字を用いて、Negative Capabilityと表記していました。私の知る限り(そしてビオン全集による限り)、もっとも包括的にこの概念をBionが定義するのは、Brazilian Lecturesと呼ばれる講演の中です。
精神分析家は、被分析者がそれが何であるかを認識するまでの間十分に、被分析者の違いと困難に耐えることができなければなりません。もしも精神分析家が被分析者の言っていることを解釈できるようになるのだとすれば、精神分析家は自らが解釈を知っているという結論に駆け込むことなく、被分析者の陳述に耐える、非常な能力を有しているに違いありません。私はこれが、キーツがシェイクスピアがnegative capabilityに耐えられたに違いないと言った時に意味していたことだと思うのです。
Psychoanalysts must be able to tolerate the differences or the difficulties of the analysand long enough to recognize what they are. If psychoanalysts are to be able to interpret what the analysand says, they must have a great capacity for tolerating their analysands’ statements without rushing to the conclusion they know the interpretations. This is what I think Keats meant when he said that Shakespeare must have been able to tolerate ‘Negative Capability’.
同じ書籍の別の箇所では、次のような質疑応答があります。
Q:negative capabilityという表現を、無知と疑いに耐える能力、それからそれに好奇心と知識を獲得してしまうのではないかという恐さとともに向き合う能力と関連づけるのはありえることでしょうか?
ビオン:私はキーツの言ったことをそのように理解しています。negatively capableとかcapably negativeという言い方はできるものでしょうか? 分かりきったことですが、優れた推敲というものは存在せず、それを考えることは困難です。こうした例から分かるように、文を優れたものへと推敲しようとすると、これらの定式化の困難さが浮かび上がります。
Q: Is it possible to relate the expression, ‘Negative Capability’, to the capacity to tolerate ignorance and doubt, and to confront it with curiosity and fear of acquiring knowledge?
Bion: That is how I understand what Keats said. Can one say ‘negatively capable’ or ‘capably negative’? Clearly, there is no good elaboration and it is difficult to conceive of one. The difficulties of these formulations arises if one requires good sentential elaboration, as these instances show.
Bionらしい、分かりにくい質疑応答ですが、少なくともnegative capabilityという概念が、キーツが詩においてそうであると述べたように、精神分析家が常に維持し続ける姿勢であることが語られています。しかしながら、その具体的なところはあまり明らかではありません。むしろ説明が加わると、かえってBionが何を言っているのかよく分からなくなります。とてもBionらしいやりとりです。
しかし、negative capabilityを論じるこのやり取りに、negative capabilityの議論を適用すれば、このBionが何を言っているのかよく分からない、という状態を性急に解決しないことが必要だ、という話になってしまいます。質疑応答はさながら禅問答の領域に吸い込まれていくかのようです。見慣れた風景が重力をきしませながら遠ざかり、どこからか祝福の鐘の音が聞こえる、そのような夢の縁に立たされています。「すみません、何を言っているのかよく分からないので、もう少し説明してください」と言うことは、やはり無粋なことなのでしょうか。
夢の縁に立たされて、私たちの前には2つの道が分かれています。1つはBionが言うようにこの概念を分かろうと「駆け込まない」こと、もう1つはそのような諌言にもかかわらず、この概念を分かろうと「する」こと、です。私がどちらを選ぶかといえば、後者を選ぶことになります。
それはnegative capabilityに逆らう行き方でしょうか。––どうでしょう。
性急に分かろうとする愚を犯すことなのでしょうか。––どうでしょう。
実のところ、私はあまりそうは思っていません。というのも、どうせ全ては分からないのですから。恐れる必要はありません。分かるところまでを分かれば良いし、それで分からないことが残ればやがて理解が訪れるまで待てば良いのです。と、私は思っています。
たとえば、この言葉を何と訳すかについては、今なお文学界でも議論があります。多くの研究者たちがこれを論じながら、消極的能力、負の能力、否定的能力、受容能力、受動的能力、消極的受容性などの訳語をあててきました。精神分析界においてもこの語の定訳はないと言って良いでしょう。これだけ広く行き渡りながら、それでもなお、訳語を確定できないほどに具体的にはできない「何か」でしかないのです。
そのように、どうせ全ては分からないのです。性急に分かろうとすることを恐れる必要はありません。そのように考えて、夢の縁から足を踏みだしたいと思います。
negative capabilityとは何なのでしょうか。そしてこれはどう訳せるのでしょうか。それが今回のテーマです。
長くなりましたので、続きは後日。