留守番とネグレクトに寄せて

(この記事はnoteの転記です。タイムスタンプは2019/09/15 23:59です。)

ツイッターのタイムライン上に子どもに長時間の留守番をさせることがネグレクトに当たるのか、という話題についてのいくつかが流れてきたので、便乗して最近思っていることを書いてみます。主題は「留守番とネグレクト」ではなく、「寄せて」にあります。

もとのツイートを辿れていないので、どのような経緯で議論が生じているのかは分かりませんが、長時間の留守番が慢性的に起きる時、それをネグレクトと考えるという発想は分からないものではありません。アタッチメント対象がそこにいないということはアタッチメントシステムを活性化させる出来事であり、アタッチメントシステムが活性化するにもかかわらずそれを静めてくれる養育者のケアが存在しないことは子どもにとって痛手だからです。当然ここには子どもの年齢や発達の程度が関連しますが、長時間・慢性的であることは、小学校までの子どもの対処能力を超えるでしょう。

これをどうにかするには、養育者が不在の間のケアを整えることと、帰宅した後のケアに時間をかけることになるのでしょう。アタッチメントの相互作用はしばしば質的側面が重視されますが、量的側面も重要で、そのことは、ある時には十分にケアできないことも別の時にケアすることで補いうる、ということも意味しています。

ただ、こうした議論は、そもそも、事実を指摘する側面と、それを誰に語るかという側面があって、おそらく次のように言うことが、この問題を取り扱う1つの形であるのだろうと思います。

「そのようなネグレクトになりかねない状況を支援できない私たちの社会のネグレクト性は何なのですか」。

最近、まったく別の文脈で考えていることがあります。別の文脈というのは面会交流や親権争いや虐待に関する家族再統合で、つまり子どもの養育を巡る養育者の問題ないしは支援です。

ここではしばしば親権ということが問題になります。面会交流そのものは、子どもの権利を守るために親の離婚があった際にも、面会ができるように、という議論ではあるのですが、親が子どもに会う権利としても論じられたりしています。

最近考えていることというのは、親権という考えを廃止したらいいのではないかということです。法的に詳しくはないので、この議論は(法的に)乱暴なものかもしれません。親権を廃止しなくとも、これから述べることを実現することは可能かもしれません。けれども、子どもの養育に必要なのは、大人の側の子どもへの適応と発達上どうしても生じる社会的逸脱に対する統制であり、それは親の権利というよりも義務として定位されるものであるように思うのです。

と思ってwikipediaを見たら(wikipediaでいいのかどうかは議論のあるところでしょうが)、親権という考えの廃止されている国があり、代わりに責任が定められている国があるのですね。私が考えているのもそれに近いのですが、親権を次のように解体してはどうかというものです。

親権 → 子どもの養育義務 + 養育可能となるように支援を受ける権利

もう少し拡張して図にすると、以下のようになります。

アートボード 1

子どもには健やかに成長し、発達する権利があり(生きる権利とでもしましょうか)、その養育者にはこれを支える(養育する)義務があります(養育義務とします)。しかし、養育者はまた、そのことが健やかに行なえるように社会に対して支援を求める権利があり(養育支援権と呼んでみます)、社会にはこれに答える義務があります(養育支援義務はどうでしょう)。この場合の社会とは、おそらく具体的には自治体が主になるでしょう。「私がちゃんと養育をできるように支えてくださいよ」という主張は権利です。自治体はさらにこの支援を行なえるように社会に対して制度的に財政的に支えられることを要請する権利があり(養育支援支援権とかにするとだんだん訳が分からなくなりますね)、社会にはこれに答える義務があります(養育支援支援義務とかにすると以下略)。この場合の社会とは、おそらく具体的には国になるでしょう。

養育者に関しては、適切な支援が行なわれたにもかかわらずその養育義務が果たせない時には、子どもの権利を守るために養育義務者の変更措置がとられます。このことを判断するのは人権にかかわるだけに裁判所になるでしょう。そこで判断されるのはしかし、養育者の養育義務の履行と、社会の養育支援義務の履行です。

養育者は離婚に際して、親権を争うのではなく養育義務を争うことになります。離婚した親にも養育義務はついて回るかもしれません。面会交流は子どもに対する養育義務として行われ、ここに親の権利は介在しません。これが適切に行なわれるように支援することは自治体ないしは国の義務ですが、面会交流が子どもの権利において適切でなければ停止されます(もしくは開始されません)。虐待への介入や家族再統合は養育者の権利としてではなく、子どもの権利において行われ、これが守られない限りにおいては養育義務者の変更措置が取られます。しかし、児相への通告は罪の告発ではなく、養育支援権に対する支援の始まりです。これを履行するために、児相の有する強制性は取り除かれて司法に移行されます。

義務という言葉を使ってはいますが、子どもが健やかに育ち、養育者が健やかに養育するためには、義務の履行において義務という言葉に伴う負担感はなじまず、義務でありながら子どもに、あるいは養育者に安心を与える対応が求められます。安心感は、義務履行を判断する物差しの1つを構成するでしょう。

中心にあるのは子どもの育ちです。子どもは私たちの未来です。それがどのような行く末になるにせよ、子どもなしに未来はありません。「だから子どもをどのように育てるかの権利を養育者は有するのだ」「だから養育者がどうするべきかを社会は決定できるのだ」というのではなく、「だから子どもの育ちを支える義務を大人は有していますね」という転換について考えています。

ざっとそのようなことです。これによって生じるかもしれない細かな問題を十分に吟味はできていませんし、そのような吟味を必要とするほどにこの案を現実的なものと考えているわけではありません。しかし、養育は権利ではなく義務であること、それを支えてもらうことは権利であり支えることは義務であること、この権利と義務のバーターを考えています。

権利と義務は確かにバーターです。しかしそれは、ある個人の権利を主張するためにその個人が義務を果たせねばならないのではなく、ある主体の権利を守る義務が他の主体に存在しているという意味においてバーターです。そのように権利と義務の交換の構造を階層化して考えてみることはできないだろうか、というのが上の図であり、そのようなことを最近考えています。

留守番とネグレクトの話に戻ります。子どもの長時間の慢性的な留守番がネグレクトになることはありえます。しかし、そのことが問題視されるのは養育者のレイヤーにおいてではなく、適切な支援を提供できない社会のレイヤーにおいてです。この場合、社会とは自治体でもあり、またこの社会の有形無形な仕組みです。そしてこの社会には「私」が含まれます。問われるべきは私たちの社会なのです。

虐待の問題を指摘する時に、養育者の問題が指摘されると同時に、私たちの問題も指摘されます。児相の対応が指摘される時にも、児相の問題が指摘されると同時に、私たちの問題が指摘されるのです。学校の問題が指摘されるのであれば、学校を取り巻く私たちの問題が指摘されます。

家庭において生じた問題を、社会のレイヤーから切り離し、家庭のレイヤーにとどめることは、社会のネグレクトであり虐待であると私は考えています。

そうしてこのことは、必然的に政治性を帯びます。なぜなら逆境的環境に置かれた子どもを守る、ための養育者を守る、ための地域社会を守る、ための制度と財政を整えるのは、私たちを代表する国の仕事だからです。とりわけ、すでにさまざまなところで指摘をされているように、福祉領域に不足しているのは人手とお金であって、その増強が求められています。再分配は国の重要な仕事であり、どこにお金をかけるかは私たちの生活に直結し、しばしば弱い立場の人からその悪影響にさらされていきます。

もちろん国の資源は有限です。そのために今何を行ない、どこに税金を投入するかは極めて重要な決定です。あとから問題が生じた時に、これは私たちの決定であり、ここから回復することも私たちの仕事だと言えるようになるためには、決定に先立って「私」のレイヤーで十分な議論が行なわれる必要があります。最近、国は児相の福祉職を増やすことにしました。しかしこのことに十分な議論がないことは、私たちが私たちの問題としてこのことを引き受けていないことを意味します。

増員と同時に、福祉領域の給料が上がるとすれば、それを私たちは良しとするでしょうか(他は上がらないのに)。困窮している家庭が、困窮しているという理由で支援を受けることを良しとするでしょうか(どの家庭だってそれなりに困っているのに)。本当に困窮している家庭ならね、という留保に潜む悪意をこれから先、私たちはやり過ごしたりしないでしょうか。

経済的な発展と、国際的な情勢と、個々人の幸福の追求と、社会の各領域の発展を促す政策と、むしろ社会において文化的に最低限の生きることを可能ならしめる福祉への注力と、私たちはどこにどのような配分をするのか、それは必然的に政治性を帯びています。

そのようなことを考えるに、不透明な優遇措置、記録やデータの改ざんや破棄、透明性のない意思決定、復興の名を冠した浪費、名目を偽った増税、経済格差の増大、朝貢のような外交、といったことが重ねられては困ります。そのような社会では、分配に安心感を抱けないからです。

子どもは私たちの未来です。だから子どもをどう育てるかの権利を大人が有するのではなく、だから子どもの育ちを支える義務を大人は有するという転換について考えています。養育者の背後には私たちがいます。その気配を、好むと好まざるとにかかわらず、養育者は感じているのではないでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

先頭に戻る