(この記事はnoteの転記です。タイムスタンプは2019/08/11 01:34です。)
支援対象者が事件を起こして捕まった時に、自分の責任をいったん棚上げして落ち着きを取り戻したら、次にできることはなんでしょう。
たとえば子どもの支援をしている時に養育者が捕まったような場合に、残された子どもと家族のケアをどうするかということは考えなければなりません。「父親としての犯罪者」というのは、日本でもそろそろテーマとして浮かび上がってきそうな領域ですが、事件を起こしたのが父親であれ母親であれ他の家族成員であれ、ここには分離と喪失というアタッチメントの中心的課題がついて回ります。
これについては、少し前にレビューをしたのですが、親の収監というキーワードでくくられる研究テーマがありまして、そこでは犯罪を行なうような「悪い」親が逮捕され、収監されて家からいなくなることは、子どもの発達に肯定的に作用するかしないか、という議論が行なわれてきました。おおよそのところ、親の収監は子どもに否定的な影響を与える、とされています。
その説明原理にアタッチメントが用いられています。これはアタッチメントの中心的な発想であるので繰り返し言いたいと思いますが、子どもはよく見知った世話する人に結びつくように生まれてきます。その世話の質が低いものであるとしても、「うちの親ってば全然面倒見てくれないんで、もっと良く世話してくれる人のところに行きますわ」とはなりません。むしろ、そのように考えられること自体が、希望を持っているという点で、すでに一定の信頼に足る世話を誰かに受けてきた証拠とみなせるかもしれません。
どのような世話であれ、子どもは身近な養育者に結びつきます。虐待的な養育者を求め、かばい、分離に痛手を被ることを、アタッチメント理論はこう説明します。
「そういうものだから」。
愛情があるとか、好きだから、とかではなく、刷り込みのように養育者と結びつくようにできているのだというのが、アタッチメントという概念の示唆するところです。
そのため、事件を起こすような反社会的問題を抱えている親であるとしても(あるいはそれがきょうだいであっても)、子どもにとって、これは分離・喪失の経験となります。支援の途中で家族が逮捕されるようなことがあれば、このケアをする必要があるのだと思います。
ポイントの1つは、支援者にとってと同様に、事件の責任は子どもにはない(あるいは周囲の誰にもない)という境界線を引いておくことでしょう。子どもにとって親の逮捕・収監は大きな痛手であり、これをこなすために「自分のせいだ」と考えることはよくあることです。「それはあなたのせいではない」ということを明確にすることは必要なことです(ややこしい事例もなくはないのですが)。
場合によってはこうした「あなたのせいではない」という説得が功を奏さないことも起こりえます。そのときには、逮捕があまりに受け入れがたいために、自分のせいにせざるを得ないのだということを考えてみても良いかも知れません。話題は、誰の責任か(誰の責任ではないか)、ということではなく、子どもにとっても周囲の大人にとっても、家族の逮捕・収監がどれほどつらく恐いことか、ということになっていくでしょう。子どもの場合には、目の前から「悪い」親がいなくなっても、心の中に「悪い」親が残ることがあり、これについての内的作業が求められるかもしれません。心理療法の領域です。
分離を経験することになる親の逮捕・収監に、子どもや残された家族はどう対処するとその否定的な影響を減らせるのか、そのための施策はどのようなものか、といったことはここでの議論の範囲を超えていますので、機会があれば別に述べたいと思いますが、少なくとも、境界の問題と、分離・喪失のケアということは考えておかなければなりません。どのように再会を(あるいは再統合を)迎えるのか、ということも重要なテーマです。
研究データ上、男子には親の逮捕・収監後に外向性の行動問題が増加しやすいとも言われていますので、そのことも頭に入れておいても良いかもしれません。
支援対象者が事件を起こした時に取り組むことになるまた別のことには、支援上もう少しできることはなかったか、ということを振り返り、せめて何かを学んで次の支援に活かしていくことが挙げられるかもしれません。犯罪の領域では「リスク・アセスメント」と呼ばれる作業を行なうことに相当しますが、あらかじめ犯罪の問題が念頭にあるならともかく、そうでない支援の状況では見落とされやすいものなので、気付くところがなかったか、思い当たるところがなかったかを振り返ることができると、次は何かに気付くことができるかも知れません。
犯罪は(非行もですが)、しばしば身勝手な欲求から起きると考えられています。そのような要素も確かにあるのですが、むしろこれは葛藤の「解決の試み」として概念化されるものだと私は思っています。犯罪とは「行動の病」であり、社会にとっての問題であると同時に、本人にとっては問題の解決なのです。
そのため、振り返りにおいては、何かしらの葛藤や苦悩、不安や恐れの高まりがなかったかどうか、そのことに対して被害的になったり他罰的になったり自責になったりしていなかったかどうか、つまり「敵意と憎しみ」の問題を抱えていなかったかどうか、これを解消するために、あるいはそれまでにも葛藤や欲求不満を解決するために、何かしらの行動を通して「具体的に」問題を片づけようとしていなかったかどうか、それが周囲の他者や規範に照らして協調的ではないやり方ではなかったかどうか、といったことに注目することができます。
具体的に問題を片づけなければ気が済まない、というパーソナリティの機能の仕方を、精神分析ではコンテイニングの能力の弱さ、あるいは欠如と考えますが、不安や葛藤を心の中に抱え、周囲の状況と照らし合わせ、その中で可能な解決の方法を模索する、という時間と忍耐とを要する作業が、犯罪に至る人には困難であることがしばしばです。そのために性急に解決を図り、社会的な規範を逸脱します。
しかし、こうした傾向は直接に犯罪に結びつくわけではありません。他のリスク因子と作用しあって事件に至るため、それまでの反社会的傾向、非行・犯罪歴、規範の軽視、じっくり考えることへの反発、第三者の介入を嫌うこと、なども念頭に置きながら、支援対象者にはそうした側面が、具体的にどんなふうに現われていたのだろうか、と振り返ってみることで、次に活かせる手がかりがつかめるかもしれません(もちろんつかめないこともあるでしょう)。
支援対象者が犯罪を行なうということは、外傷的なものです。実のところ、事件を起こした当人にとってもしばしば外傷的に作用します。本人自身が事件を起こしたという事実に恐れを抱いている側面があって、事件後も支援対象者との関わりがあるとすると、そのケアができることも大事なことになるでしょう。どうやって再発を防ぐか、という話の前に、何がそれほど耐えがたかったのかという葛藤の振り返りと、それをどのように解決しようとしたのかという行動の振り返り、そして、事件を起こして自分で衝撃を受けたのではないかという外傷のケアとを行なうことが求められることになります。その後で、より良い解決について話を進められるでしょう。
それぞれの話はもっと続けることはできて、やれることはいろいろあるわけですが、しかしそれはやれる可能性のあることであって、実際のところ支援者にやれることはそう多くありません。犯罪の専門家であっても事件を予測するのは不可能だと言われているわけで、罪悪感や無力感にとらわれず、一線を引いてやれることをやり、せめてやれることを増やしていくのが、私たちの仕事なのではないでしょうか。
支援対象者が逮捕に至ることを経験した支援者の話は、犯罪者や加害者の支援以外ではあまり聞くことがありません。でもきっとそれなりの支援者がこれを経験していると思いますので、他にもアイデアのある方がいらっしゃれば、教えていただければと思います。