(この記事はnoteの転記です。タイムスタンプは2019/08/05 00:08です。)
最近、問い合わせを受けて思ったことなのですが、犯罪に関わる臨床の中では、被害者支援に携わる人への支援や、加害者支援に関わる上での支援などの話はありますが、それ以外の領域で犯罪と関わることになった支援者に対する支援というものはあまり見かけませんね。たとえば社会的養護の領域で関わっていた親が犯罪を行なったとか、精神科で見ていた患者が逮捕されたとか、もっとよくあることとしては、生徒が事件を起こして逮捕されたとか、そういう立場にある人への支援のことです。
事件というのは本来的に外傷的なものだと私は思うので、支援対象者が思いがけず事件を起こしたという事実に遭遇すると、支援者も多かれ少なかれ動揺しがちです。支援対象者が被害者になるということも相応にショックなことですが、加害者になる、犯罪者になる、あるいは犯罪者であったということが判明するということは、それとはまた別の苦悩をもたらします。というのは、自分が他者や社会に危害を与えることに加担している感覚に襲われるためです。
私たちは社会や誰かの役に立ちたいと思って支援する者としての仕事を行なっています。その支援の対象者が犯罪を行なうということは、私たちの仕事の立脚点をそっくり壊してしまうものではないでしょうか。
そのため、ここに傷つきが生じます。罪悪感を覚えたり、無力さを味わったり、怒りが湧いてきたりすることでしょう。事件が起きたという事実、そのような支援対象者であったという新事実、そこで起きてくる感情や足場の揺らぎ、被害を思う時の衝撃、といったものに襲われる時に、それをどのように取り扱えばいいのかということを知る機会はなかなかないように思いますし、そうした支援者への支援というものが議論の俎上に乗ることもあまりないように思います。
問い合わせがあったのは、そうした場合、何を考えたらいいのか、ということでした。何を考えたらいいのでしょう?
私もこれまであまり考えたことのなかったことでしたので、それほどしっかりとした答えを持っているわけではありませんが、1つだけ、境界についての認識をはっきりとさせた方がいいだろうとは思っています。つまり、犯罪を行なったのはその人であり、支援者ではない、という境界線をはっきり引いておいた方がいいのではないか、ということです。
反社会的な問題とは、その言葉が示す通り、枠組みからの逸脱を基本としています。時々、非行傾向や犯罪傾向のある人の面接が難しいという話を聞きますが、枠に乗らないことがほぼその定義である反社会的な問題を、枠の中で取り扱うことが難しいのは自然なことです。それに対する工夫はもちろんありますが、ある枠の中に自主的に収まるというのはそれなりに力のいることです。締切を守ったり、ルールを守ったりするのに力がいることを思えば分かりやすいかも知れません。
フロイトは禁止があるのは行為したい願望があるからだ、と言いました。その通りなのでしょう。「火の中に手を入れてはいけません」という禁止がないのは、誰もそんなことをしたくないからです。枠があるのは、枠を破るような行為への傾向を私たちが備えているからで、その傾向をより強く示すのが反社会的な問題です。
したがってここに、境界の問題が立ち現れます。反社会的傾向からの回復とは、ある意味ではこの境界の確立にあると言ってもいいと思います。どこまでが自己の領分で、どこまでが他者の領分で、どれが分かち持たれた領域か、ということを回復の過程では身につける必要があります。
確かに私たちは支援者として、支援対象者が違法行為に至った時に自分を責めたくもなるでしょう。あるいは支援対象者を責めたくもなるでしょう。しかし、しばしばそれは間違っています。支援者が自分を責めたくなる時、支援者は過度な責任を負わされています。支援者が相手を責めたくなる時、支援者はそのような役割を演じさせられています。これらはいずれも善悪を知り、事態に適切に対処する機能や能力が、支援者に押しやられていることを意味しています。支援対象者にはなく、支援者にはある、という非対称性を表わしています。だからそれを発揮できなかった自分を責めるし、だからそれを発揮して被害への怒りを思うのです。
しかし、考える能力は、本人が持つべきものです。境界線の内側で本人に保持されるべきものです。私たちは私たちで考える能力を持つにしても、そこには対称性が必要です。対称性を失ったこうした反応は、いずれも境界侵犯の産物だと私は思います。
個人と社会の接点に生じる反社会的な問題は、必然的に周囲に生じる混乱を持って1つの形を為しています。したがって支援者の動揺まで含めてその一部であるのです。
そのため、支援者に必要な最初の態度は、「色々思うところはあるけれども、それはそれとして事件の責任は本人にある」とまずは一線を引くことだと私は思っています。自分の感情にも一線を引きます。それは支援者同士で共有される必要があります。そして起きた事態に粛々と対応することになります。そうして境界を確立し、まずは支援者の機能の回復を図ることが肝要だろうと思っています。
もちろん精神分析にしても、アタッチメント理論にしても、物事を関係論的に考える立場にあるために、私個人は事件が起きればそこに関与していた自分の寄与について考えます。社会復帰支援に携わっていればそうした自己の関与について考えることなしに仕事はできません。それでも、犯罪臨床にない領域で仕事をする支援者について、こうは言えると思います。「関係性の視点から自分の寄与を考えるのは、関係性を理解する能力と犯罪性を理解する能力が深まってからでいいだろう」。それは境界侵犯に対する安全装置です。
ひとしきり支援者の機能が回復したら、考えてみることは出てきますが、長くなりましたので後編に続きます。
(ところで、しばしば犯罪を犯すという表現を目にするのですが、これは頭痛が痛い類する表現だと思っていいのですよね。)