子どもの臨床に関わること、あるいは選挙について

(この記事はnoteの転記です。タイプスタンプは2019/07/16 10:13です。)

私はもともと子どもの臨床を志してこの領域に入ってきたわけではありません。実際のところ、今でもそれほどしっかりと子どもの臨床に関わっているとも言えません。どちらかというと子どもの支援や治療に携わっている人たちを側面から支援しているくらいの立ち位置でいると考えています。そのような立ち位置になったのも、この4、5年ほどの間です。

もともとは心理療法に関心があって臨床心理を学び始めたわけですが、気が付くと(というほどに非意識的でもないのですが)司法臨床に関わっていました。きっかけは刑務所改革が始まって、非常勤の心理士が刑務所に雇用されるようになったからですが、私にとっては犯罪者との仕事は思っていたよりも親和的なものでした。刑務所の中でも社会の中でも非行・犯罪の問題を抱えた人たちとかかわりを持つようになると、とりわけその予防を考えた時に、子どもの養育に目が向くのは自然なことでした。

養育を支えることが、犯罪の予防にかぎらずおよそ不適応と呼べる成人の状態に対する最初の、効果的な介入となるだろう、というのは、それほど難しく考えずとも思いつくものでした。理由は2つあります。1つは、発達早期の経験がその後に影響をもたらすことが示されており、特に養育とその環境についての知見が積み重なっていること、もう1つは、私たちの中には今でも子どもの頃の経験が生きていて、それが問題を引き起こしていること、です。

私たちは発達の過程において、乳幼児期から成人期へと進んでいきます。私の知る限り、この過程を逆に辿った人の話は聞いたことがありません(ありますか?)。人間は赤ちゃんとして生まれ、その後大人になる、ということは例外のない事実ではないか、と私は思っていますが、では大人になるとはどういうことか、という話になると事態は複雑になってきます。「え、あなたは大人なのですか?」という揶揄は受け入れます、もちろん。

仮に私が大人であるとして、それでは私は子どもから大人に変わったのでしょうか。私はすっかり大人として生きているのでしょうか。私は自分を振り返る時、あまりそのように考えることはできないのですが、むしろ人は、子どもから大人に変わるわけではなく、子どもであることを残したままに大人の部分ができていくものではないかと思っています。私たちの心の中には、今でも子どもの私たちが息づいていて、子どもとしての経験は時間と空間を越えて、今でも私たちの中に生きています。

地元に帰省して、同級生に会ってうっかりカラオケで懐かしい曲を歌うことになった時、誰かが歌う「少年期」に、いつもは冴えないのび太の活躍に胸躍らせた幼い自分が顔を出すのを、誰が禁じえるでしょうか。

通りかかった母校となる小学校のサッカーゴールが夕日に照らされているのを見て、休み時間の喧騒が耳に響きわたるとすれば、それはどこから湧いてくるのでしょう。

あるいは、見上げた校舎に当時と変わらない図書館の窓を見つけて、一人本を開いていた時間が胸を打ったりしないでしょうか。

小さな公園を見つけた時に、親のいないすき間の時間を埋めようと団地の中を歩き回る、幼い子どもの茫漠とした風景が重なるのはなぜでしょう。

もっと幼い頃のことはもっと幼い子どもたちと向き合うと記憶以前の記憶として刺激されます。もちろん、大人と子どもの二分法はまったく便宜的なものにすぎませんが、私たちの心の中には今でも連続的な時間を連続的に過ごしてきた子どもの私たちが生きていて、そのために通り過ぎた過去と現在の隔たりを、過ぎ去った時間の厖大さを、かつてはあったはずの可能性と今手にしている現実との落差を、幸か不幸か知ることが出来ます。

生きるということは、たくさんの可能性を失い、代わりにごく限られた現実を手にすることです。小学生の自分がやってきて、「ぼくは幸せになった?」と聞かれたら何と言えばいいでしょう。

「まあまあかな」と言ってみるかも知れません。「まあまあだって」と隣にいる加藤君は笑うでしょうか。「まあまあってどういうこと?」と三浦君はいうかも知れません。川口君は「腹減ったぁ」と言い出すでしょう。彼らを見下ろしながら、ずっこけ三人組みたいだな、と私は思うかも知れません。

子どもの頃に受けた影響は、その時の事実として子どもの発達に影響を与える、と記述されるだけではなく、そこで挫折したニードと、その痛みに対する混乱と、子どもなりの生きのび方が、今でも心の中にざわめいていて、今を生きることに作用しています。犯罪者の心の中に親に殺されかけた子どもを見いだす時、子どもの心から大人の精神へと至る犯罪性の発達の時間的経過と心的経路の空間的広がりとを見いだすことができる、そのようなことです。

子どもの臨床を考えることは、1つには今生まれつつある将来の問題に手当てをすることに他なりません。けれどももう1つには、すでに問題を抱えている大人の中の子どもの心に手当てをすることにもつながります。少なくない場合において、それは私たちの中の子どもの部分をケアしていることにもなるでしょう。

養育を支えることは最初の効果的な介入であるだけではなく、そのことに関心を持つことが持ち越された大人の、そして私たちの、今現在の問題を思うことでもあるわけです。

それにもかかわらず、この領域への人とお金の投入は、十分ではありません。予防を可能にするほどの人とお金は投入されておらず、大人の中に子どもを見いだすことにも社会は積極的ではありません。私たちの社会は、残念ながら問題が発生してから目に見える問題に対処するために重たい腰を上げるかどうかを考え始めようと重たい腰を上げるかもしれない厄介な腰の重さを持っています。それはとても不幸なことです。みんな「今」に忙しいのですね。

けれども、だからといって、諦観したふりをしているわけにもいきません。幼い子どもたちに振りかかる不幸については特にそうです。私たちは子どもの苦しみに直面した時に、同じように私たちの中の子どもの苦しみを刺激される仕組みを備えています。そのようにして子どもと関わるようにできている生き物です。子どもの不幸を放置する時、私たちは自分の心の痛みを見捨てているのです。

私が子どもの臨床に関わる人たちを側面から支援する位置に自分をおいている理由は、だいたいにおいてこんなところです。ここに近づいたのは、たまたまとも言えるし、必然的な帰結だとも言えます。なんだかんだで4、5年が経ちました。けれどもはっきりとしているのは、ここが人生の始まりであり、最初の効果的な介入が可能な場所である、ということです。今子どもたちが経験している苦しみは、未来にまで届く苦しみです。私たちが子どもの頃を振り返る時に浮かびあがる時間の長さは、今を生きる子どもたちの前に広がる未来です。

子どもの頃の自分が現われて「どんな未来が待ってるの?」と聞かれたら、何と答えたらいいでしょう。子どもの頃の私には、自分たちが失われた世代と呼ばれるようになることは想像もできないことでした。「バブルがはじけてさ」と答えても、なんのことやら分からないでしょう。子どもは子どもの世界を生きますが、その世界を形作るのは大人なのですね。

「貧困ラインの実質値が下がってるところで消費税が上がってさ」。

かつて子どもであった私たちは、今を生きる子どもたちに、どのような未来を残していくでしょう。

「ぼくは幸せになれますか?」

誰かの責任ではなく、自らの手で未来を残すために、選挙にいきましょう。

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