アタッチメントの視点をとるということ

(この記事はnoteの転記です。タイムスタンプは2019/08/18 23:31です。)

7月に行なった講演というかワークショップの資料を使って、アタッチメントと心理療法について何か書こうと思いながら日々がすぎていく今日この頃ですが、それはきっと暑さのせいですね。

アタッチメントについてはそれなりに取り組んできたし、それなりに書いてきたし、それなりに話しても来たのですが、ある時期に自分の中にあった枠組みは定式化されたものとして保持されつつも、しばらく経って振り返るとだいぶ違うところにたどり着いたりしていて、最近も私なりのアタッチメントの臨床応用の理解はどんなものだったかなと考えています。ですので、振り返りのためにアタッチメントの視点を取るということに関する今の理解について、まとめておきたいと思います。

講演や研修でずっと話してきたことは、単純にいうと次のようなことです。

1.アタッチメント理論は安心感の理論であり、安心感を巡る関係性の理論である
2.アタッチメントという言葉で考えられることは3+1要素
 1)アタッチメントシステムを活性化する恐怖事態とか危機的状況
 2)それによって喚起される恐れや安心感のニード
 3)くっつくことを実現するための行動と方略
 4) これに対する養育者のケアの質
3.臨床的には3)から2)を想定し1)と場合によっては4)を想像する

たとえば以下のような理解です。①子どもに行動問題が見られる時には、恐怖、恐れ、不安、葛藤などの言葉で指し示される何らかの内的情動が生起しており、これに対処し、とりわけ安心を得るための方略として行動問題が生じていると考えられる、②そのため介入のターゲットはどのようにしてアタッチメントシステムの活性化を静めるかにある、③そのためにはこれを刺激した出来事を特定する必要があるし、それが出来ない時でも子ども自身は何かしらの危機を感じていると思って対応することが必要、④可能であれば情動と行動問題の関連から受けてきたケアの痕跡を推測できると対応の手がかりにもなる。

この4要素とその作用が私なりのアタッチメントの臨床応用における枠組みでした。3)の方略に精神分析的な防衛機制を組み込むと、たいていの事態はうまく整理できるように思って来ましたし、そこからはみ出るものを扱う理論を精神分析は有しているとも思って来ました。

この枠組み自体は今でもさほど変わりがないのですが、しかし、このことを話すたびに取りこぼしているものがいくつかある気がしていまして、最近は2)の恐れとニードについて前より考えるようになっています。たとえば、次のようなことです。

子どもでも大人でもいいのですが、生育歴に「親の離婚」があるとします。これはアタッチメント理論においては古典的な分離・喪失の経験の1つに数えられるものです。ですので、臨床場面でこの情報に接すると次のようなことをざっと考えます。

a. 離婚は分離・喪失として潜在的に外傷的なもの
b. その経験がどれほど外傷的になるかは2つの要素から成る
 i) その経験より前の関係の質
 ii) その経験を通過していく際の(代理)養育者のケア
  どのような説明をされたか
  悲嘆のケアが為されたか
  (代理)養育者の問題に影響されなかったか
c. 分離・喪失においてありうる内的経験
 環境の崩壊による混乱
 去っていった対象から(見)捨てられたという感覚
 去っていった対象もしくは去っていかせた対象への怒りや恨み
 分離・喪失に至るまでの生活で経験したかもしれない恐怖

こうしたことについて、この人はどうだっただろうか、ということを頭に描きつつ話を聞いたり、生育歴を読んだりしています。そこから危機的状況においてこの人が経験した関係のあり方とそこでどの程度安心感がケアされたのかということを想像し、その経験が内在化されているのだろうかということを想像したりします。

たとえば、離婚によって自分が捨てられたという感覚があるのだとすれば、大事な人にとって自分はいらない存在だという自己像を抱えてこれまでやって来たことになるかもしれません。そのことが対人関係に問題を生じさせないはずがありません。あなたを嫌って別れたのではないという言葉をその人は養育者から聞きたいでしょう。離婚の理由が説明されなければ、その人の人生にとって決定的な環境の崩壊について何も知ることが出来ないままこの人はやって来たことになります。不確かで不確実な世界を生きることはどれほど恐いことでしょう。一緒に住むことになった(代理)養育者が離婚に触れたくないのだとすると、大事なことを聞いてはいけないという禁止がかかります。そのような人にとって他者と深く触れ合い、他者を知ることがどれほど恐ろしいことでしょうか。何が起きたのか、本当のことを知りたいと思いながら、本当のことを聞くのが恐いというアンビバレンスを生きているかもしれません。

それはもちろん想像された理解にすぎません。しかし、こうした離婚を巡る関係と恐れ・ニードのあり方が他の状況で同様に想像された理解と一致するようであれば、あるいはこのケア関係が現在の問題をうまく説明できるようであれば、これがこの人のパーソナリティ機能を説明し、介入の焦点になること、言葉を換えれば見立てやケース・フォーミュレーションの中心として浮かび上がることになります。私はおそらくアタッチメント理論・研究の知見を、このようなやり方で用いています。

もともと上に挙げた3+1要素から成る枠組みを考えるようになったのは、目の前で起きている問題をどのように理解するか、ということが私に必要であったからですし、それが役立ちそうにも思ったからです。しかし、何か抜け落ちている気がしていたのは、これとは逆の方向性、つまりこれまでの経験から何が今問題として残っているのかということについての理解、特に、ある人が経験してきたことのうちのどれが人に安心感を巡るどのような問題を残すことになるのかということについての枠組みが、私の中で(存在していたにも関わらず)意識化されていなかったからだと思ったのです。

おそらく、この離婚のような要素が、私の中には他にも、虐待、ネグレクト、養育における拒否、役割逆転、病気、養育者の多忙、いじめ、転校、受験などとリストアップされているのだと思います。その全てを意識的に拾い上げられる気はしないのですが。

これらのそれぞれについて、どのような関係性の中でケアを経験し、どのような恐れとニードが残り、それがどの程度パーソナリティの機能を形作っているのか、ということについて、最近は良く考え、話をするようになってきたなと思っています。おそらくこのことについての作業内容もリストアップされているのだと思います。

このような変化が起きた理由は、もしかすると事例検討を多くするようになったからかもしれません。ある程度まとまった情報が手に入ると、prospectiveな理解がもてます。そのような情報がなく問題に直面すると、上に挙げた枠組みのように遡行的な、retrospectiveな理解の組み立て方をすることが必要です。状況が変化して、私は最近、恐れとニードを理解することについて考えているのではないかなと考えています。

私の変化はさておき、まとめると、今のところ私はアタッチメントの視点を取ることについて、こんなことを考えているようです。

回顧的な理解
 目の前の問題にアタッチメントシステムの活性化を読み取りこれに焦点を当てる
漸進的な理解
 経験を通して形成された関係性と恐れ・ニードの内在化に焦点を当てる

人を理解するということを、私は安心感のニードを中心に構成しているのですが、今もってなかなかに定まらないようです。

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